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2007年12月 2日 (日曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその9

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写真は、ラ・ファイエットのクリスマス・イルミネーションです。

 とうとう、12月になってしまいました。我が家は、受験生を抱えているので、いよいよ受験本番!(親が緊張しても仕方ないけれど。)11月中は、謝恩会、三者面談、願書を揃える、引越し準備で少しずつ片付け、おまけにストがあって、ブログを書いている暇がなかった~。
 何故11月に早々と謝恩会があるかというと(まだ卒業もしていないのに!)海外の学校なので日本に帰国受験する為、生徒達が3学期はほとんど学校に出てこないから。だいたい、卒業式自体が1月早々にあり、その後は、学校には来なくてもいいよ(もちろん、授業料を3月まで払っているので、来てもいい。)と言うことになっているからです。
 1月の卒業式も、受験日程で12月下旬や1月始めに帰国する生徒もいるから全員は出席しないそうです。
 海外からの高校受験準備で、日本とは違った注意点は、「願書は、ひとつの学校に対して2,3部用意しておいてください。」と学校から言われた点。なにせ、海外、うっかりミスでもあって、書き直しが必要な時でも代わり願書がすぐに手には入らないからです。願書は、帰国子女枠のある私立だと、メールで申し込めば海外でも送ってくれる学校もあるけれど、結局、11月末に夫が日本に戻って用意しました。でも、それだけでは足りず、結局、夫と私の両方の実家を総動員して準備しています。まあ~、一人の子の受験に手間ヒマ(お金も)かかること・・・。反抗期で生意気盛り息子!少しは感謝しろ~!
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さて、本文の「リドレーさんとパラ・ラバ・ツリー」です。(今日の写真は、本文とは関係ない、パリのクリスマス風景ですが・・・。)

 「マッド・リドレー」「ラバー・リドレー」と呼ばれたリドレーは、1897年から1910年にかけて初期のゴム産業について詳しい論文を書いています。
 彼の発案として、(今までも書いてきましたが)タッピング(tapping)がよく知られていますね。木を切り倒さずに、25年から30年に渡ってラテックス(ゴムの樹液)を採取できる効率的で経済的な方法です。こちらの、説明と写真は、TOMさんのブログ「熱帯植物便だよりパラ・ラバ・ツリーの林とゴムの収穫に詳しく分かりやすく載っていますので、こちらを見てくださいね。
 このタッピングも、一度写真や映画で見たことがある人ならば「ああ、あれね~。」とすぐわかりますね。
 「木の幹に傷を付けたり、樹皮を剥がすのなら、誰にでも簡単にできそう。」って、つい思ってしまうかも。
 でも、ラテックスを上手に採集するためには、ただ木の幹に切り傷をつけただけではもちろんダメなわけです。
 タッピングには鋭利な小刀を使うのですが、切りつける角度にも熟練を要し、これが下手だと樹皮に瘤が出来てしまったりして、ラテックスの収液量に影響するそうです。
 TOMさんのブログの写真では、パラ・ラバ・ツリーの幹に大体人の背の高さから下のほうに向かって、斜めに切り込みが入っていますね。切り込みは、幹の片側だけに入れ、上から順に1メートル下まで切込みを入れてラテックスを採っていきます。この片側の面だけで、4年間採り続けられます。
 そして、こちら側が下まで来たら、今度は反対側の幹を上からまた順にタッピングをし、またこの側で4年間。両方の面で8年間ラテックスを採り続けられる計算ですね。そうしているうちに休ませていた反対側には、新しい樹皮が出来てまたタッピングできるようになるそうです。それを25年から30年に渡って繰り返していくわけです。
 この方法は、ヘリボン・メソッド(the herrigbone method)と呼ばれています。木の幹に、杉綾模様を入れるようにタッピングをするからでしょうか。
 リドレーはまた、それまでラテックス採集までは25年かかると言われていた樹齢も、4から7年で採集可能だと発見したそうです。
 この他にも、パラ・ラバ・ツリーの取り木の方法や、病気や害虫の防ぎ方、効率的な植樹の方法などの研究も行っています。

 マレー半島で最初のゴム・プランテーションが開かれたのは、1895年、スランゴール州だったそうです。その後、ゴムの価格の急上昇や、アメリカの自動車産業の発展の結果タイヤ用のゴムの需要が増えて、ますますマレーのゴム・プランテーションの面積は拡大していきました。
 1913年には、マラヤ産セイロン産の農園ゴムがブラジル産の野生ゴムにとって代わり、シンガポールがブラジルのベレンに代わって世界のゴムの積み出し港になったのでした。
 年代が下っていくと、我も我もとゴム産業に参入する人々が続いたようですが、やはり、しかっりとした経営や栽培方法のノウハウのない農園は失敗し、採算が合わずより大きな農園に吸収されていったそうです。
 熱帯雨林を切り開き、農地にするのは大変過酷な労働で、そのため中国やインドから沢山の労働力が導入されました。植物であるパラ・ラバ・ツリーも遥かなブラジルから、東南アジアへと運ばれてきたのですが、パラ・ラバ・ツリーのためによその国から国へと移住した人々もまた沢山いたのです。

 TOMさんのブログ、パラゴムノキの花パララバツリーの葉っぱパラゴムノキの実も読んで下さいね。こんな風に、今やパラ・ラバ・ツリーはシンガポールに住んでいるととても身近な木になっています。自然保護林を歩くと、かつてのプランテーションの名残で、種が落ち自然に生えたパラ・ラバ・ツリーに出合ったりするので、まるで東南アジアがこの木の故郷であるかのような錯覚を憶えてしまうほど。
 イギリス植民地の成功はまた、動植物をまったく別の地域に移動させてしまったという罪の面もあるそうです。オーストラリアのウサギ、インドのユーカリ、セイロンなどの茶農園、などなど、東南アジアのパラ・ラバ・ツリーもそのひとつ。
 それはまたひとつの自然破壊と言えるものなのでしょうが、人の利益のために運ばれた植物達は、そんなことはお構いなしに、たくましくすっかりその土地に馴染み、今ではその土地を思い起こす懐かしいものにまでなってしまっているんですね。
 
 
 

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