庭園&美術館

2008年7月 2日 (水曜日)

フランスの花壇の色-Parc de Sceaux

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早いもので、前にブログを書いてから早一ヶ月がたってしまった!我が家の息子二人は、帰国子女なのだが、3月にフランス(その前はシンガポールだったわけだけれど)から帰国して、日本の学校に馴染んでいくのにやっぱり時間がかかるものなのね~・・・。
 と言うわけで、息子二人のケアに明け暮れていました・・・。
今日は、中学生(一年)の下の息子の期末テストがなんとか終わりほっ・・・!成績は置いておいて、まあ、いろいろよく頑張ったね!

 
さて、この写真は、フランスのウォーキンググループ「かしまし」のTさんに送っていただいた、4月のウォーキングの写真です。Tさんにお願いしてブログに載せさせてもらいました。場所は、ソー公園(Parc de Sceaux)です。

 この写真を見てドッキリ。ああフランスの色だなあって思ってしまった。ときどき、フランスの植物の使い方、色の使い方に新鮮な驚きを感じてしまうのは、私だけかな・・・?私は、どちらかと言うと、森や里山などが好きだし、庭ならいわゆるイングリッシュガーデン(英国式風景庭園)か、日本に昔からある日本式庭園が好きなのだけれど、こんな感じに植物でアートしているっていう庭にドキドキしてしまう。
Tさん、どうもありがとう!

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2008年5月17日 (土曜日)

王妃との賭けに勝った庭-バガテル庭園

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 バガテル庭園-Parc de Bagatelle
ブローニュの森の中にある庭園です。アクセスは、メトロ1番線ポルト・マイヨーからバス244。または、メトロ1番線ポン・ド・ヌイイーからバス43
(写真は、2007年6月と7月に撮ったものです。)
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Grille de Sevresの入り口を入って左手に、Chateauが見えます。
 バガテル庭園は、1720年、騎士マルセル・デストレが小さな館を建てたことに始まります。この館はその後すぐに豪華な城に建て替えられました。(写真の城が、その城かどうかはわかりません。)
 もともとブローニュの森は王家の狩猟場。1770年、ルイ16世の弟アルトワ伯の狩猟頭、シメイ伯爵がこの城を購入すると、狩の時の休憩所や催し物の会場として使われるようになりました。
 そして1775年には、アルトワ伯がこの地所を買い取り、整備し始めました。P1080286jpgp
 アルトワ伯と言えば、王妃マリー・アントワネットの遊び相手としも名前の挙がる人ですが、この二人の間で「どのくらいで城を造れるか?」という賭けをしたそうです。

 アルトワ伯は、僅か64日で城と庭園を造り、マリー・アントワネットとの賭けに勝ったとか。

 この時、16ヘクタールの地所のうち10ヘクタールを庭園にしましたが、その時の造園家がスコットランド人のトーマス・バルキーです。P1080299p
 彼は、モンソー公園も設計している造園家ですが、この地に当時流行していた「中国風イギリス庭園」造りました。P1080291jpgp
 私は、庭園の歴史に詳しいわけではなく、また、バガテルは革命後売却されていろいろ人の手に渡り、建物を新しく造ったり、庭園を新たに加えたりしているので、どの部分がその時のオリジナルかよくわからないのですが・・・。

 でも、マリー・アントワネットがプチ・トリアノンに王妃の庭を造り、それが自然回帰をテーマにしていたように、こちらも、自然な感じのするイギリス式庭園だったようです。そこに、中国風を取り入れるのが当時の流行りだったとか。


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 今でも、池があり、小川の流れる気持ちの良い庭園です。P1080289p
 孔雀もゆったりと自由に歩き回っています。P1080226p
 革命後、いろいろな人の手に渡っていたバガテルですが、1905年、パリ市が購入し管理することになりました。
 造園家ジャン・クロード・ニコラス・フォレスティエの設計によりバガテルは現在に至ります。
 
 バガテルと言えば、バラ園が有名ですが、こちらも1905年に整備されました。この時、このバラ園に1,300種、8,500本のバラが植えられたということです。P1080236jpgp
 1907年には、Un concours international de roses noubelles(バラの新種の国際コンクール)が開催され、現在まで毎年開かれています。

 シーズン中、バラの新種が植えられ美しさを競っています。
 7月に私が行ったときも、メモやボードを手にした人々が熱心にバラを見ていました。P1050839p
 バラ園の眺めをいくつか。P1050840jpgp P1080246jpgp P1080227jpgp_3

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 晴れた夏の日は、どこを見ても美しいバラ園です。

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 私は、この写真がお気に入り。
木に絡ませた白いバラ。こんな風に、木に絡ませてバラを咲かせることが出来るんですね。

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2008年5月15日 (木曜日)

花の中の野菜畑ーバガテルのポタジェ

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バガテル-Parc de Bagatelle
ブローニュの森の中にある公園です。(アクセスはメトロ1番線、ポルト・マイヨーからバス2244または、メトロ1番線、ポン・ド・ヌイイーからバス43)
入園料3ユーロ、割引料金1.5ユーロ。トリアノンでの展示物も楽しめます。
陽の長いこの季節、ゆっくりと庭園を散策できます。
(写真は、2007年6月と7月に撮ったものです。)
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ブローニュの森の中にあるバガテル庭園。現在24ヘクタールの敷地の中には、イギリス式庭園、バラ園、菖蒲園などなど、丸1日歩いても飽きない程見所いっぱい。
 歩き疲れたら、キオスクで軽食と飲み物を買って、芝生の上で一休みするのも良し、おしゃれなレストランで優雅に食事をするのも良し。

 写真のこのレストランは、Route de Sevres a Neuilly沿いにある入り口、Entree Grille de Sevresから入ってすぐにあります。

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 レストランの脇をあるいて行くと、このJardin des Presentataeur(展示用庭園)を通ります。

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 いろいろな感じに、花壇が造ってあって、花壇の見本市みたい。

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 それぞれの花壇を楽しみながら、古風な家の横を通り過ぎると・・・。

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 あれ、お澄ましした庭園から、農家の庭先という感じに・・・。

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 こちらから見ると、いかにも農家の裏庭の畑。
 ここが、バガテルのポタジェ(菜園)です。P1080266jpgp
 ウォーキング・グループ「かしまし」のTさんに、初めてこのポタジェに連れて来てもらった時は、花壇の中に野菜畑がある様子にびっくり。P1050827p
 それから、このエスパリエ(Culture en espalier-樹懎式栽培/じゅしょうしきさいばい)を見たときも意外さに驚いたのです。
 こちらは、マルメロ(Cydonia oblonga)をエスパリエにしてありますが、他にもリンゴやなし、イチジク、イチゴでも造るそうです。

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 壁風だけでなく、こんな風に低い垣根風にも造ってあります。
 エスパリエは、フランスではごく普通に見られるものだそうです。装飾にもなるし、実が熟したらはもちろん捥いで食べられるという一石二鳥のものですが、私がその意外さや、木をこんな風に、人の思うままに造っていることに驚いていると、
「エスパリエって、日本でも紹介されてるよー。」とTOMさん
そうだったんですか~。今まで見たことなかった・・・。P1080272p
 それから、こんな風に、野菜のすぐ傍にお花が植えてあって、野菜と花が仲良く同居する畑って見たことなかったって、TOMさんに話したら、
「それって、コンパニオン・プラントって言うのよ。野菜に虫がつきにくくするお花を傍に植えるのよ。」
 な~るほど、ポタジェって言うの、日本の園芸雑誌て見たことあった。でも、私が見たのって、コンテナの寄植えとか、庭の小さな一角で作るポタジェ(キッチンガーデンと呼んでいる雑誌もあります)で、こんな広い畑って、想像してませんでした。P1080269jpgp
 ポタジェの歴史は古いようです。フランスの中世の城や修道院の見取り図を見ていると、ポタジェ(Potager)と記してある場所を見つけられるでしょう。
 イギリスの物語を読んでいても、菜園(キッチンガーデン)が、領主屋敷の台所の裏手などに造られている様子が書いてあることがあります。
 医者が簡単に呼べないような時代は、このポタジェにハーブを植え、手入れをし、生のまま又は乾燥させて民間薬として使っていたようです。
 ハーブはまた、料理に使う香料としてももちろん重宝に使われていたでしょう。P1080276jpgp
 イギリスの児童文学、バーネットの「秘密の花園」の中に、ムアに住むディッコン少年が、家の傍に畑を造り、野菜の間に上手に花々を植えいて、ムア中で一番美しい畑になっている様子が描写されていますが、こんな様子だったのででしょうか。P1080271p
 フェンネル(Fenouil)。魚料理によく合うバーブですが、根っこの部分はよくマルシェで売っていますね。P1080270jpgp
 ベリーも食べごろ。P1080274jpgp
 トマトと手前は、ルバーブかな。左に見えるのはレタスの一種かしら?

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 果樹の下に、野菜畑と花。

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 果物も、熟してくると花のような彩を畑に添えますね。
 今まで、ポタジェ(または菜園)のことを本で読んで知っていたのですが、TOMさんとお話しするまで、これがそのポタジェだとは何故か気づきませんでした。
 百聞は一見にしかず。ありがとう、TOMさん。

 さて、バガテルはバラ園が有名ですが、ポタジェも何が植えれているのかじっくり見て歩くと楽しいですよ。

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2008年4月 6日 (日曜日)

子供に西洋からみた東洋を考えさせる-ギメ美術館

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 3月22日、2日続きの引越しの後、午前中の家の掃除と後片付けを済ませると、午後ギメ美術館に子供達を連れて行くことにしました。
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 ギメ美術館は、メトロ9番線イエナ駅のすぐそばにあります。
 リヨン生まれの実業家エミール・ギメのコレクションを元に創設された、欧州最大級の東洋美術館。特に有名なのが、カンボジアで栄えたクメール美術のコレクションです。
 1階にクメール美術と、インド、東南アジア、2階にヒマラヤ、アフガニスタン、パキスタン、中央アジア、3階に中国、韓国、日本のコレクションを展示してあります。
 ギメ美術館は、フランス語のO先生にも「是非、見に行ってらっしゃい。」と勧められていた美術館。








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 こちらが、1階内部。
たぶん、クメール美術なんだろうな~と思ったけれど、日本語オーディオ・ガイドも頼まなかったし、フランス語の解説を読むのがさすがに面倒くさくて・・・。

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 真ん中の、レリーフの拡大です。
オーディオ・ガイドを持った人の人だかりがしていたので、目玉なんだろうということで。

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 フランスを離れる前に、何故わざわざ東洋美術を子供達に見せたかったかというと、1つはシンガポールにいたころ、アンコールワットに子供達を連れて行きたかったのですが、実現しなかったため。
 日本に帰ってしまうと、これほどのコレクションは簡単に見られないだろうと思ったのですが、子供達はしら~っと見てました。





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 以前子供達が住んでいたシンガポールは、かつてイギリスの植民地でした。ギメ美術館が誇るクメール美術のカンボジアも、フランスの植民地インドシナの一地域。前に二男を連れて行った、ケ・フランリー美術館はアフリカの美術品のコレクションで有名だけれど、やはりフランスはアフリカも領有していた時期がある。
 長男がフランスに来て意外に思ったことは、移民が多いことだったそうです。




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 フランスは、本当に美しい。パリの景観は素晴らしいし、文化も見るもの聞くもの素晴らしいものが沢山ある。食べももの美味しい。
 フランスの東洋への憧れは、ヴェルサイユ宮殿の展示物を見ても、美術館の絵画を見ても、庭園の中国趣味を見ても見て取れる。
 でも、パリにギメ美術館やケ・ブランリー美術館があることを憶えていて、息子達がいつかその意味に気づくことがあればいいな~、と思ったわけだけれど、二人ともしら~っと見てました。


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 1階は、他にも展示物は沢山ありますが、私がなんとなく気に入った展示物です。












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 こちらは、東洋学者でもあったエミール・ギメの蔵書が収められたライブラリー。
 吹き抜けになっていて、天井から淡い明かりが入って来ています。







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 落ち着いた、良い雰囲気。
回りには、蔵書がぎっしり。

P1110921p_2  ライブラリーは、円形になっています。丸天井付近の柱一本一本には、彫像が飾られています。
 なんとも、豪華なライブラリー。


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 こちらは、2階のアフガニスタン出土のガラスの魚。












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 3階の展示物から。韓国のお皿。3階には、日本の展示物も中国のものも、陶器、掛け軸、根付、箪笥、などなど豪華なものが他にも沢山あります。
 このお皿はどちらかというと、地味なものなのですが、全部に鹿の絵が描かれていて、連作か何かの物語になっているんだろうかと思ったので、写真に撮っておいたもの。鹿は、何を意味するのかなあ。






 西洋の美術館で東洋や日本の美術品のコレクションを見ていると、「こういうものが、美しいと思ったんだ。」と思ったりします。
 日本で生まれた子供達が成長期の一時期を東南アジアで過ごして、ヨーロッパに移り住んで、どう感じたかは分からないけれど、私は、シンガポールだけ住んだのなら、東南アジアから見たヨーロッパということは考えても、ヨーロッパから見たアジアということは、特に意識しなかったのではないかと思います。
 恐らく、ヨーロッパだけに住んだのでも、アジアを意識することは無かったのではないかな。シンガポールからいきなりフランスへ来たから、余計に感じたのかもしれない。
 子供達には、凱旋門やエッフェル塔、フランスの世界遺産だけではなく、西洋から見た東洋もどこかで憶えておいて欲しいと思ったのでした。

 

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2007年12月22日 (土曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその10-リドレーのマレー半島探検ー

今日の写真は、マレーシア、キャメロンハイランドの風景や植物、昆虫です。214p_2
 「リドレーとパラ・ラバ・ツリーその10」です。今日は、リドレーのマレー半島探検のお話です。
 
 イギリス人の植物学者H.N.リドレーが、1888年に英領だったシンガポールに、初代シンガポール植物園園長として赴任し、当時の重要戦略植物であったパラ・ラバ・ツリー(パラ・ゴム)を、マレーの農業作物として根付かせ成功させたことは、前回までに書きました。
 ゴム農園の成功は、パラ・ラバの種子を東南アジアの農園に供給していた、シンガポール植物園の財源も豊かにしました。
 シンガポール植物園長としてのリドレーの管理責任は、シンガポール植物園だけに留まらず、ペナンのウォーターフォール植物園と海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)の森林自然保護区にも及んでいました。植物園や自然保護区の管理と維持には、大変資金が掛かります。その上、植民地省は資金の供給を節約していたので、リドレーは常に植物園の維持管理費の調達に悩んでいました。
 マレーのゴム農園の成功は、この資金不足も解決したことでしょう。リドレーは、「マレーのゴム産業の父」とも呼ばれるようになりました。マレーのゴム産業は、錫産業と並んで世界最大となったのです。
 また、シンガポール植物園長となることは、イギリス王立キュー植物園を頂点とする植物園網に組み込まれることであり、リドレーは確かな地位を手に入れたのです。リドレーが平凡な人間であったら、ゴム農園の成功とともに植物園長を無事に勤め上げることで十分満足したことでしょう。しかしリドレーの野心は、そんなことに留まっていなかったのです。
 彼の夢は、シンガポール植物園を一流の熱帯植物研究センターとすることでした。彼は、カルカッタ植物園(Indian botanic Gardens,Hawrah)やスリランカのパラデニア植物園(Royal botanic Gardens,Paradeniya)より遅れて出発した、このシンガポール植物園を、独力で熱帯地方を代表する植物園となる基礎を築いたのでした。そして、その努力は疲れを知らないものでした。

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 リドレーは、商業用植物を求めてマレー半島中を旅しました。それもまた、植物園の任務であったのです。しかし、リドレーは商業用植物の収集ばかりでなく、植物園の標本室のための収集にも力を入れたのです。それは、多種類に及び、今では絶滅したしまった植物も含まれています。リドレーの収集した植物標本は5万個を数えます。

 左は、マレー半島の地図です。右下の青印がシンガポール、地図の中の赤い印がリドレーが訪れた地です。マレー半島の広範囲を探検してまわったことがわかりますね。

 「私がこの地を最初に訪れたのは、1889年だった。今では、鉄道や自動車で容易に行ける森や山も、当時は、長く困難な徒歩でのみたどり着ける場所だった。」(1917年、リドレー)

 リドレーのこの言葉通り、まだ交通手段も交通網も発達していない時代に、彼は荷馬車に乗ったり、馬やポニーの背に揺られたり、河を小船で行ったりしながら、植物探索の旅をしたのです。
 リドレーの植物探検は、マレー半島とシンガポール島内だけに収まらず、タイ南部、スマトラ東海岸、リアウ諸島、ボルネオ北西部、Lundu(ボルネオ、サラワク州の町)、ラブアン島、クリスマス島にも行っています。それは、植物園の仕事としてばかりではなく、彼の自費を使って行った探検もあるそうです。
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 左は、マレー半島中部パハン州の地図。地図の上の方に、タマンヌガラ国立公園(Taman Negara National Park)の文字が見えるでしょう。
 タマンヌガラ国立公園は、パハン州、クランタン州、トレンガヌ州をまたいだ広大な自然公園です。ここに、マレー半島最高峰のタハン山(標高2187m)があり、レドレーは2度にわたり登頂を目指しています。
 
 最初の試みは、1891年でした。青い線がその道筋です。
 記録によると、まずマレー半島東海岸のペカン(Pekan)から上陸し、パハン河をボートで行きます。河を遡ること6日かかってTemerlohに着きました。ここでもう少し小さなボートに乗り換え、川幅が狭くなった川を14日かかってクアラ・タハン(Kuala Tahan)に。ここからさらに、タハン川を3日かけて遡り、ついにタハン山の麓までたどり着きました。
 しかしこの時は、タハン山山頂までの道が分からず、そうこうするうち食料が尽き、一行のうち3人が熱病に倒れたため、20日後に登頂をあきらめて引き返しました。

 二度目の挑戦は1911年。リドレー56歳、引退する一年前でした。緑の線が、二度目の彼の取った道筋です。
二度目は、パハン州中央のクアラ・リピス(Kuala Lipis)まで行き、ここで今度はハウス・ボートを仕立てて川を遡り、7日後、タハン山の麓に着きました。今度は、頂上までの道が分かっていたので、2日で頂上に到着しました。
 ここでリドレーは、植物探検としては初めて、砂岩高原に生える矮小化した花を発見しました。彼は、ここでたくさんの新種の収集もしたのでした。

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 1889年から1911年の22年間、そして引退後も彼は、マレー半島とシンガポール島を隈なく探検し、植物を収集しました。収集した植物は、発見エリアごとにチェックリストを編集し、新種については記述を行っています。
 現在ではキャメロンハイランドと呼ばれるエリアの探検では、612種の維管束植物のリストの報告書を書いています。
 
 植物相の起源と植物の地理には大いに興味を抱き、圧倒的に常緑樹の多い熱帯雨林林と、落葉性の樹木の多いモンスーン気候型の森林は、マレー半島北部のどの辺りで切り替るのか、最初に研究したのも彼でした。
 リドレーは、アロー・スター(Alor Setar)の近くでこの切り替りがあるのではないかと見当をつけ、後の研究で確認しています。
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 リドレーは、文字通りマレー半島の実に多くの山に登り、ジャングルを行き、植物の収集と探索を続けたのですが、また、それは自然破壊を目の当たりにするような探索でもあったようです。

 彼は、錫産業が盛んなキンタ渓谷(Kinta Valley)や、スランゴール、ジョホールも訪れました。
 キンタ渓谷のある、マラヤン・ティン・ベルト(Malayan Tin Belt)と呼ばれるマレー半島北西部は、1850年代から錫産業が始まり、1890年代には世界最大の錫生産地になりました。
 産業の発展により、中国やインドから労働者が大量に移住し、街も発展し、それに従って森林も後退して行きました。
 リドレー自身が勧めた、ゴム農園もまた森林破壊のひとつの原因となっていたのでした。ゴム農園は、1905年以降、爆発的な勢いで栽培面積が広がっていました。農園の発展も、熱帯雨林を切り開くことから始まります。労働者を外国から移住させ働かせることにより街が広がります。そのため、消えていった植物もあったのです。
 シンガポール島内もその例に漏れず、リドレーが記録した1900のシンガポールの植物相のうち、現在見られるのはその4分の3だそうです。
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 1917年、リドレーはこう記しています。
「この近年の、今までになかったような、広範囲の農耕の発展を私は遺憾に思う。樹木が切り倒され、熱帯雨林が焼かれるということは、多くの植物、それに恐らく、多くの昆虫や動物達も消滅していく原因になっているのだ。
 これは植物学者にとって、なんと悲しいことだろう。
 マレー半島の消えいく植物相や動物相が、ドードー(17世紀、マスカリン諸島で絶滅してしまった飛べない大型の鳥)のように消滅してしまう前に、これらの標本を保存することが、さらに重要なことになっている
。」

 1924年に彼が書いた「マレー半島の植物相」には植物の消滅した例が記されています。
 1897年、彼はクアラルンプール近くのバツー洞窟(Batu Caves)周辺の密林の 中の小さな暗い泥地で、水草の一種を見つけました。それは、Echinodorus ridleyi(Ranalsima rostrataの近種)と名づけられましたが、その後その水草をリドレーは二度と見つけることは出来なかったそうです。
 
 




 


 
 
 

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2007年12月17日 (月曜日)

ブランリー河岸美術館

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 ブランリー河岸美術館-Musee du quai Branly
アクセス:メトロ9番線 Alma Marcedau下車徒歩5分、RER・C線 Pont de Alma下車徒歩3分、バス 63 92 80 42
入館料:常設展8.50ユーロ 割引料金6ユーロ


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 12月の始め、いつもウォーキングをご一緒しているTさんFさんS君と下の息子と私、
「寒いし、雨が降っているから美術館に行って見よう!」と言うことで、ブランリー河岸美術館に行くことにしました。
 冒頭の写真は、ライトアップされた美術館の中庭。夕暮れが早く、展示物を見終わって5時ぐらいに外に出てみたところです。
 12月に入ると日暮れが早くなり街が一日中暗い日もありますが、この季節はこんな美しい演出も楽しめます。
 続いている写真は、昼間の美術館の外観。植物が自然な状態で植えてあって前面がガラス張りになっているので、道路から見るとまるで温室を見ているような雰囲気があります。ガラスを通して、向こうにエッフェル塔が見えるところが、心憎い設計です。

 この日は、12月の第一日曜日だったので入館料はタダ。(パリやブローニュでは、毎月第一日曜日は入館料がタダになったり割引があったりします。)
 外は寒いけれど館内は暖か。重いコートや傘もタダで預けて身軽に見学。こういうところ、パリは行き届いていて凄いな~。上野の美術館や博物館も、入館料がタダになる日があったり、荷物を無料で預かってくれるシステムがあればいいのにな~と、思いつつ見学を始めました。
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 この「ブランリー河岸美術館」は、2006年6月20日にシラク大統領が落成式を行い、同じ月の23日にオープンした新しい美術館です。
 ここで見られる展示物は、アフリカ、アジア、オセアニア、アメリカ(ネイティブ・アメリカン)の美術と文明です。もともとフランスの植民地だった地域から集められてきた美術品が中心になっています。
 素朴な力強さを感じる彫刻や、装飾品の細やかな細工、布や衣装の斬新なデザインなど、ヨーロッパ美術を見るのとはまた違った楽しさがあります。
 
 フランスは、19世紀末から20世紀半ばまで(第2次世界大戦まで)、イギリスと競い合って植民地を増やしていましたが、美術館を歩いていると、フランス人も実に様々な地域に旅立っていったものだと思います。

 1931年、パリで国際植民地博覧会が開かれました。その時、植民地博物館が建設され、カンボジアの有名なアンコールワットも再現されたそうです。その後、この博物館は「アジア・オセアニア博物館」と名前を変えて、パリの東端にずっと存在していたのですが、シラク大統領の時代に、7区のセーヌ川沿いでエッフェル塔のすぐ近くのブランリー河岸の現在の地に移りました。
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 実はここはフランス語のO先生に「一度は見に行きなさい。」と言われた美術館。
 フランス語のO先生は、推定80歳ぐらいかな(お歳はさすがに聞けません)・・・と思われる老婦人ですが、経歴はちょっとユニーク。
 モロッコで生まれ、5歳までその地で過ごし(「アルジェリアにも行ったことあるわ。」とのこと)、いったんフランスに戻ります。フランスの中部地方で9歳まで過ごした後、お父さんの仕事の関係で上海へ。
 「じゃあ、スエズ運河を通って船旅だったんですか?」との私の問いに、
「そうよ、フランスから上海まで1ヶ月かかったの。とっても快適で素敵な船旅だったわ。」とのこと。
 O先生は、15歳までの少女期を上海で過ごし、お父さんの仕事がベトナムに移るとともに15歳から19歳までベトナムに住みました。
 
 ブランリー河岸美術館には、ベトナムの衣装や細工物などの美術品もあります。
O先生にとっては、今でもベトナムではなくインドシナ、ホーチミンではなくサイゴンという呼び方の方が馴染みがいいのだそうで、多感な時期を過ごしたサイゴンでの思い出は格別だそうです。
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 O先生のサイゴンでの思い出の花、フランボワイヤン(Flamboyant)。シンガポールでは、フレームオブザフォレスト(Delonix regia)と呼ばれています。シンガポールで私が撮ったこの花の写真を見たとき、O先生は本当に懐かしそうなお顔をしていました。

 そして、インドシナに日本軍が進駐(1940年)する前後に、O先生はフランスに戻りました。
 その帰りの船旅でシンガポールに寄港したそうで、その時シンガポール植物園も訪ねました。当時のシンガポール植物園も美しくて素晴らしい植物園だったそうです。

P1100800p その後、O先生は結婚して、子育ての10年間はアフリカのカメルーンで過ごしました。
 フランス領や、元フランス領だった国に次々と移り住んだ方なんだなあ・・・と、ブランリー河岸美術館を歩きながら思いました。
 私はフランス人というと、ついフランスにずっと住んでいる人たちだけを頭に思い浮かべてしまい勝ちだったのですが、それだけではないのだとつくづく思ったのでした。フランスは移民も多いのですが、フランスを出てO先生のように、両親とともにあちこち移り住んだ子供もやはり多かったのでしょうね。
 
 O先生は、子供時代から熱帯地方で過ごすことが多かったため、寒い地域は苦手だとか。アジアや日本が好きで、日本にも何度か旅行に行ったことがあり、日本の好きな都市は、京都と函館なんだそうです。
学生時代は、アメリカ近代文学を学んだそうですが、親日家で、日本語を学んだり、和食が好きだったりするところは、子供時代のアジア体験が影響しているのでしょうか。

 ブランリー河岸美術館で、展示物に熱心に見入るフランス人達を見て、いろいろな面からフランスを見なければならないのだなあ、と思ったのでした。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 

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2007年12月 2日 (日曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその9

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写真は、ラ・ファイエットのクリスマス・イルミネーションです。

 とうとう、12月になってしまいました。我が家は、受験生を抱えているので、いよいよ受験本番!(親が緊張しても仕方ないけれど。)11月中は、謝恩会、三者面談、願書を揃える、引越し準備で少しずつ片付け、おまけにストがあって、ブログを書いている暇がなかった~。
 何故11月に早々と謝恩会があるかというと(まだ卒業もしていないのに!)海外の学校なので日本に帰国受験する為、生徒達が3学期はほとんど学校に出てこないから。だいたい、卒業式自体が1月早々にあり、その後は、学校には来なくてもいいよ(もちろん、授業料を3月まで払っているので、来てもいい。)と言うことになっているからです。
 1月の卒業式も、受験日程で12月下旬や1月始めに帰国する生徒もいるから全員は出席しないそうです。
 海外からの高校受験準備で、日本とは違った注意点は、「願書は、ひとつの学校に対して2,3部用意しておいてください。」と学校から言われた点。なにせ、海外、うっかりミスでもあって、書き直しが必要な時でも代わり願書がすぐに手には入らないからです。願書は、帰国子女枠のある私立だと、メールで申し込めば海外でも送ってくれる学校もあるけれど、結局、11月末に夫が日本に戻って用意しました。でも、それだけでは足りず、結局、夫と私の両方の実家を総動員して準備しています。まあ~、一人の子の受験に手間ヒマ(お金も)かかること・・・。反抗期で生意気盛り息子!少しは感謝しろ~!
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さて、本文の「リドレーさんとパラ・ラバ・ツリー」です。(今日の写真は、本文とは関係ない、パリのクリスマス風景ですが・・・。)

 「マッド・リドレー」「ラバー・リドレー」と呼ばれたリドレーは、1897年から1910年にかけて初期のゴム産業について詳しい論文を書いています。
 彼の発案として、(今までも書いてきましたが)タッピング(tapping)がよく知られていますね。木を切り倒さずに、25年から30年に渡ってラテックス(ゴムの樹液)を採取できる効率的で経済的な方法です。こちらの、説明と写真は、TOMさんのブログ「熱帯植物便だよりパラ・ラバ・ツリーの林とゴムの収穫に詳しく分かりやすく載っていますので、こちらを見てくださいね。
 このタッピングも、一度写真や映画で見たことがある人ならば「ああ、あれね~。」とすぐわかりますね。
 「木の幹に傷を付けたり、樹皮を剥がすのなら、誰にでも簡単にできそう。」って、つい思ってしまうかも。
 でも、ラテックスを上手に採集するためには、ただ木の幹に切り傷をつけただけではもちろんダメなわけです。
 タッピングには鋭利な小刀を使うのですが、切りつける角度にも熟練を要し、これが下手だと樹皮に瘤が出来てしまったりして、ラテックスの収液量に影響するそうです。
 TOMさんのブログの写真では、パラ・ラバ・ツリーの幹に大体人の背の高さから下のほうに向かって、斜めに切り込みが入っていますね。切り込みは、幹の片側だけに入れ、上から順に1メートル下まで切込みを入れてラテックスを採っていきます。この片側の面だけで、4年間採り続けられます。
 そして、こちら側が下まで来たら、今度は反対側の幹を上からまた順にタッピングをし、またこの側で4年間。両方の面で8年間ラテックスを採り続けられる計算ですね。そうしているうちに休ませていた反対側には、新しい樹皮が出来てまたタッピングできるようになるそうです。それを25年から30年に渡って繰り返していくわけです。
 この方法は、ヘリボン・メソッド(the herrigbone method)と呼ばれています。木の幹に、杉綾模様を入れるようにタッピングをするからでしょうか。
 リドレーはまた、それまでラテックス採集までは25年かかると言われていた樹齢も、4から7年で採集可能だと発見したそうです。
 この他にも、パラ・ラバ・ツリーの取り木の方法や、病気や害虫の防ぎ方、効率的な植樹の方法などの研究も行っています。

 マレー半島で最初のゴム・プランテーションが開かれたのは、1895年、スランゴール州だったそうです。その後、ゴムの価格の急上昇や、アメリカの自動車産業の発展の結果タイヤ用のゴムの需要が増えて、ますますマレーのゴム・プランテーションの面積は拡大していきました。
 1913年には、マラヤ産セイロン産の農園ゴムがブラジル産の野生ゴムにとって代わり、シンガポールがブラジルのベレンに代わって世界のゴムの積み出し港になったのでした。
 年代が下っていくと、我も我もとゴム産業に参入する人々が続いたようですが、やはり、しかっりとした経営や栽培方法のノウハウのない農園は失敗し、採算が合わずより大きな農園に吸収されていったそうです。
 熱帯雨林を切り開き、農地にするのは大変過酷な労働で、そのため中国やインドから沢山の労働力が導入されました。植物であるパラ・ラバ・ツリーも遥かなブラジルから、東南アジアへと運ばれてきたのですが、パラ・ラバ・ツリーのためによその国から国へと移住した人々もまた沢山いたのです。

 TOMさんのブログ、パラゴムノキの花パララバツリーの葉っぱパラゴムノキの実も読んで下さいね。こんな風に、今やパラ・ラバ・ツリーはシンガポールに住んでいるととても身近な木になっています。自然保護林を歩くと、かつてのプランテーションの名残で、種が落ち自然に生えたパラ・ラバ・ツリーに出合ったりするので、まるで東南アジアがこの木の故郷であるかのような錯覚を憶えてしまうほど。
 イギリス植民地の成功はまた、動植物をまったく別の地域に移動させてしまったという罪の面もあるそうです。オーストラリアのウサギ、インドのユーカリ、セイロンなどの茶農園、などなど、東南アジアのパラ・ラバ・ツリーもそのひとつ。
 それはまたひとつの自然破壊と言えるものなのでしょうが、人の利益のために運ばれた植物達は、そんなことはお構いなしに、たくましくすっかりその土地に馴染み、今ではその土地を思い起こす懐かしいものにまでなってしまっているんですね。
 
 
 

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2007年11月20日 (火曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその8

今日の写真もhalさんから送っていただいた写真を使っています。
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 リドレーさんとパラゴム(パラ・ラバ・ツリー)のお話その8です。この前から、まただいぶ時間が開いてしまいました。実は、我が家は中3の受験生を抱え、来春は日本へ本帰国しようと引越しの算段もしなければならず、で、先週は「ど~やって、整理しよう・・・・。」と頭を抱えていたのでした。
 我が家は、引越しは、日本国内、シンガポール島内を加えてこれで6回目。3年に一回は引越しをしている勘定になりますが、いっこうに片付け上手、引越し上手にならないのが不思議~です。
 先週は、息子の受験のため早めに日本の家を住めるようにしておかなければならないので、航空便の1便を出しました。その時いらした運送会社の方と今後の相談をいろいろしました。
 海外引越しをしたことのある人は知っていると思いますが、だいたい、航空1便、2便、船便1便、2便と言うように、荷物を1、2ヶ月時間をずらして分けて出します。引っ越してすぐ必要なものは、1便または航空便で出す、が基本。船便など、フランスから日本だと到着までに2ヶ月は見なければならない為ですが、生活をしながらだと面倒と言えば面倒。でも、この計画が甘いと大変~!ということは、シンガポールからフランスに引越した時に知りました・・・。
 日本とシンガポールは近い為、1ヶ月半くらいで荷物が着いてしまうのです。この差っていうのが、生活していると案外大きいもので、しっかり計画していないと後が大変。思えば、日本からシンガポールに来た時も結構大変だったのに、シンガポールからフランスに来るときはそれもすっかり忘れていた私・・・。
 シンガポールから日本へ帰る方は、物を大胆に処分して帰る方が多いためか、荷物が割合と少ないそうなのですが、我が家はシンガポールからフランスだったため、何でも持っていったのです。
 というのは、馴れない外国で生活に必要な細かいものを買うのは大変なのと(日本なら、100円ショップで安く買えたりして便利ですが、馴れない外国ではちょっとしたものを買うのも最初はどこに売っているのか見つけるのが大変!)、子供の本や学用品などは全部持って行ったため、
荷物が多かったこと!
 荷物が多いと何が大変かというと、荷造りが終わらないわけです。予定の時間が過ぎても荷出しが完了せず、

 「私って、片付けが下手・・・?」と落ち込んだのですが、フランスに来て、ヨーロッパの国から国へ移動した方たちの話を聞いて「その荷物の量は普通よ!」と言われて、ほっとしたのでした。
 でも、皆さん一様に「フランスから日本への引越しは大変よ~!」とおっしゃるので、今からせっせと整理(要するに不要なものは処分することです)しようと心がけています・・・。
 思い出はモノではなく、ココロの中に・・・、モノを持ちすぎない生活をしなければ、転勤族はやってられないのね・・・・

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と、前置きが大分長くなってしまいましたが、本題リドレーさんです。
 リドレーが、パラゴム(パラ・ラバ・ツリー)農場育成に熱心だった時代背景は、前の記事で書きました。
 リドレーがパラゴムに熱心だったのは、その時代の必然的なことだったのでしょう。彼は、マレーの農場主にパラゴムの種子を配り、熱心に農場経営を勧めたのですが、当時、コーヒーやスパイスが主流であったマレーの農場主からはなかなか相手にされず、「マッド・リドレー」「ラバー・リドレー」と呼ばれたという逸話が残っています。
 リドレーが勧めたパラゴム農場は、マレーで大成功を収めるのですが、人々が農場経営に乗り出すまでは時間がかかったようです。
 リドレー自身が、彼の自叙伝でその様子を書いています。
『ある時、私はペラクのタパの近くの休暇用の家の周りに、とても大きく育ったラバー・ツリーを何本か発見した。その木の所有者のマレー人が言うには、このうちの一本から、66ポンドのラバーが採れるということだった。
 この家は、以前は自治区の役人の家で、私はその役人にパラ・ラバの種を植えてくれとせがんだのだ。私は彼のポケットいっぱいにパラ・ラバの種を詰め込んだのだった。』

『ラバー景気が始まった後のある日のこと、私の家からちょっとの間セイロンへの旅に出ていた者が帰って来て、セイロンである茶農園主に会ったと私に話した。
 その茶農場主は-彼は名前は忘れてしまったそうだが-彼に言ったそうだ。
「おや、あんたはシンガポールにいたことがあるそうだね。あんたはマッド・リドレーと呼ばれている男を知ってるかい?」彼は知っていると答えた。
「ふ~む、何年か前だがね、彼は私に沢山のラバーの種を送ってきた。そしてそれを植えてくれと頼んできたのさ。私はそのリドレーさんから何かもらえるかと思って、彼を喜ばせるために蒔いてみたのさ。そうしたら、そら、みんな育って・・・。」』
 この茶農場主は、「マッド・リドレー」が送ったパラ・ラバの種を植えたお陰で、パラゴム農場主として成功し、金持ちになったということです。

次回は、リドレーさんが行ったパラ・ラバ・ツリーの研究のお話ですが、TOMさんがタッピングの様子をブログで分かりやすく説明しているのでこちらを見てくださいね。  

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2007年11月10日 (土曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその7

パラ・ラバ・ツリーのお花の写真です。今日の写真も全てhalさんが撮影したものを使わせていただいています。
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 1888年、シンガポール植物園園長として赴任したH.N.リドレー。しかし彼が責任を持ち、管理しなければならなかったのは、シンガポール植物園だけではありませんでした。ペナンのウォーターフォール(Waterfall)植物園も彼の管理下であり、またその他に、海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)にある森林保護区にも責任があったのです。
 植民地省の経営陣は常に財源を節約しており、そのためリドレーは植物園経営のための資金不足問題に直面しなければなりませんでした。
 盛んな繁殖と成長を見せているパラ・ラバ・ツリーに、東南アジアのゴム農園の将来の可能性を確信した彼は、パラ・ラバ・ツリーの研究に邁進していきます。彼はまた、イギリスが東南アジアでゴム(パラ・ラバ・ツリー)栽培を成功させ、植民地の産業として農場経営をすることの重要さも十分理解していたでしょう。そしてゴム農園の成功は、東南アジア一帯に種子の供給をになっていた植物園の重要な収入源となったのです。

パラ・ラバ・ツリーを重要な戦略物資と見ていたイギリスは、ブラジルから苦労して持ち出し、発芽に成功させた苗木を一箇所の植物園にだけ託すようなことはもちろんしませんでした。
 イギリスの王立キュー植物園で発芽した約2800本の苗木のうち、1900本はセイロンに送りましたが、残りの約900本はキュー植物園に残し、そのまま育て研究。セイロンに着いた1900本のうち、22本はシンガポールに送りましたが、同じようにインド、ビルマ(現ミャンマー)の植物園と、オランダの植民地のジャワ島、ジャカルタ郊外のボイテンゾルク植物園(現ボゴール植物園)にも苗木は送られたのです。
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 ここに、王立キュー植物園を頂点とする、世界各地に広がるイギリスの植物園網を見ることが出来ます。
 当時植物園、特に植民地に造られる植物園とは、現在の人々が考えるような市民の憩いの場のための遊歩道や散歩道のあるものでも、ましてやヨーロッパに見られる王侯貴族の温室つきの庭園ともまったく意味の違うものでした。
 植物園は、植民地経営の一環として造られたものであり、その地域の植物を採取、分類、研究し、有用な商業植物を集め、また他の地域から植物を移植し、有用なものなら研究をする機関だったのです。
 「帝国主義の時代」と呼ばれるこの時代は、ヨーロッパの列強が植民地の拡大を互いに競い合った時代であり、東南アジアもその舞台のひとつでした。植物戦略は植民地経営の重要なものであり、パラ・ラバ・ツリーもそのひとつだったのです。
 

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2007年11月 8日 (木曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその6

今日の写真は、全部パラ・ラバ・ツリーです。シンガポールのhalさんに送っていただきました。halさん、どうもありがとうございます。
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1888年、ヘンリー・ニコラス・リドレー32歳。シンガポール植物園園長としてこの地に立った彼。その時、セイロンからシンガポールに送られたたった22本のパラ・ラバ・ツリーの苗木が育ち、わずか11年でその種子から生えた木が十分な成長を見せている、その盛んな繁殖の状態を目の当たりにした彼が思ったことは、
「こ、これは、金になる・・・。」。
では、なかったかも知れませんが、リドレーは、パラ・ラバ・ツリーがいずれ東南アジアで重要な商業用農産物となること、ゴム・プランテーション(大規模農業)を実現させるために種子の供給がすぐに必要になってくるだろうと確信したのでした。そしてそれは、財政難に苦しむ植物園の貴重な収入源になるだろうと。
 
 では、ここで、時代背景を少し。
1819年:東インド会社員、トーマス・スタンフォード・ラッフルズ、シンガポールに上陸。シンガポールをジョホール王国より割譲。イギリスは、シンガポールを自由貿易港に指定。東南アジア貿易の拠点となる。
1826年:イギリス東インド会社は、シンガポール、マラッカ、ペナンの3つの植民地を統合してマライ海峡植民地とし、インドのベンガル総督府の管轄下でペナンに海峡植民地知事が駐在。
1840年:清帝国でアヘン戦争。
1842年:南京条約締結。清朝はイギリスに、香港島の割譲、上海など5港の開港を認める。
1845年:香港とシンガポールを結ぶ定期航路の開設。
1858年:インド、ムガール帝国滅ぶ。東インド会社廃止。イギリスの直接統治がインドで始まる。英領インド。
1867年:マライ海峡植民地、イギリス直轄地となる。海峡植民地のインドへの従属に反対していた、シンガポール在住イギリス商人たちは、インド植民地からの分離と植民地議会の設立を訴えていた。新総督はロンドンから直接派遣され、シンガポールに駐在。
1869年:スエズ運河開通。遠洋航路の所要時間が短縮されるようになった。
1875年:英首相ディズレーリ、エジプトからスエズ運河株を購入。ヨーロッパとアジアの距離を大幅に短縮する交通ルートの要を管理下に置く。
1877年:インド帝国成立。イギリス女王ヴィクトリア、インド皇帝を称す。
1888年:英領マライ連合州成立。イギリス、ボルネオ北西部のサワラク王国を保護国とする。
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 さて、リドレーの本国イギリスは、18世紀半ば以降に起こった産業革命により「世界の工場」として世界をリードしていましたが、1870年代になるとイギリス経済は長い低迷の時代に入ります。この大不況は1873年から1896年まで23年間続き、イギリスは「世界の工場」の座をすべり落ち、替わってアメリカが工業生産順位第一位へと躍り出ます。
 イギリスは、従来の貿易優先の発想を転換し、今まで蓄積した資本を元にした対外投資により利益を確保する「金融大国」への道を追及することになりました。そのためイギリスは、強大な海軍力を後ろ盾に、積極的な植民地獲得に乗り出し、また、利益の獲得を目指して工場、鉄道、鉱山、農場経営などの多様なかたちで植民地に対する膨大な投資がなされました。
 リドレーがシンガポールにやってきた頃は、イギリス本国や世界で経済構造が大きく変化しようとしている時代であり、長い不況の中で列強の国がさらなる経済成長を目指して新たな植民地確保にしのぎを削っていたのでした。
 イギリス本国は、植民地からの収奪が今までに増して必要になってきた時代でした。
 

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2007年11月 4日 (日曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその5

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 ゴム加工に携わったトーマス・ハンコックの提唱で、東南アジアでのゴム栽培の試みを始めたイギリス。まず、最初の難関は、どうやってゴムの木(パラ・ラバ・ツリー/Hevea brasiliensis)を移植させるかでした。今では、飛行機というスピーディな移送手段がありますが、19世紀半ば当時の輸送手段は船。ブラジルから種子を船で運び、イギリスの王立キュー植物園で発芽させる最初の試みは1873年に行われました。この時は12本が発芽し、そのうちの6本をカルカッタ植物園に移植しようとしましたが、失敗。
 次に、王立キュー植物園園長のフーカー卿は、アマゾン流域のサンタレンに駐在していたヘンリー・ウィッカム卿に2度にわたって種子を送らせます。が、これも発芽に失敗。原因は、長い船旅のため種子が腐ってしまったり、輸送の途中で種子が波をかぶり塩にあたってしまうことでした。
 ウィッカム卿は、懲りずに3度目の挑戦をします。1876年、今度は7万粒の種子を船に積み、大急ぎでキュー植物園に送り出しました。
 船はエンジンのスピードを落とさずに大急ぎで大西洋を渡りました。イギリスのリヴァプール港に、パラ・ラバ・ツリーの種子が到着したのが1876年6月10日。そして、港に予め待機させていた貨物列車に運ばれて、キュー王立植物園に無事着いたのが6月14日でした。
 種子は翌日すぐに蒔かれ、そのうち約2800粒が発芽しました。翌年の1877年に、1900本の苗木がセイロンのパラデニア植物園に「ウォードの箱」に入れられて運ばれました。
 「ウォードの箱(wardian case)」とは、19世紀のイギリス人医師ナタニエル・ウォードが考案した、ガラスと木枠で密閉された植物輸送用の箱のことです。この箱に入れることにより、長い船旅でも植物を枯らすことなく輸送できるようになりました。19世紀当時はゴムの苗木の他にもお茶などの有用植物が輸送されていました。
915_108p_2 さて、これが「イギリスがブラジルからゴムを盗み出した」と言われる出来事です。
 その頃のシンガポール植物園にも、1876年にセイロンからパラ・ラバ・ツリーの苗木が50本、すでに届いていました。こちらの苗は、キュー植物園の採集家ロバート・クロスがブラジルから持ち帰った1000本の苗木のうちの一部だったようです。この1000本の苗木の一部も、イギリスからセイロンに送られ、またそのうちの50本がシンガポールに送られたそうです。
 しかし、この50本は輸送が上手く行かず、手間取ったため全部枯れてしまったそうです。
 1877年6月11日、ウィッカム卿が3度目の挑戦でブラジルからイギリスに送り出した種子7万粒のなかで、発芽に成功しセイロンに送られた1900本の中の、さらに22本の苗木がシンガポール植物園に届けられました。アジアのゴム・プランテーションの第一歩が始まったのですね。
 この22本の苗木のうち、9本はKuala Kangsar とPerakに植えられました。この苗木はよく育ち、1822年には種子が採れるようになり、この種子がまたシンガポール植物園に植えられました。1888年にH.N.リドレーが赴任した時、この種子から生えたパラ・ラバ・ツリーは十分育っていました。
 ここから、リドレーの奮闘が始まります。

 
 

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2007年11月 2日 (金曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその4

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 こちらの写真は、和名「インドゴムノキ」(Ficus elastica/Moraceae クワ科イチジク属)です。
日本では観葉植物として植木鉢に植えれて売られていますね。私の子供の頃も、この「ゴムの木」の鉢が家にありました。
 子供の頃、植木鉢に植えられた「ゴムの木」を見て、テレビで観たゴムのプランテーションでラテックスを採取する様子(今思えば、タッピングの様子を観たのでした)を思い出し、本当に白い液が出るかと思って木に傷をつけたりしたものでした。(いたずらっ子だったんです。)新葉を包んでいる赤い托葉の先をちょんとつまんで傷をつけると、簡単に白い液が出るので面白くてどんどんやり、怒られました・・・。
12no_181p  怒られた時に、「ゴムの木」はプランテーションで植えてあるゴムノキとは違う(プランテーションの方は、パラ・ラバ・ツー/Hevea brasiliensis/Euphorbiaceae/トウダイグサ科/パラゴムノキ属)と聞いたのです。でも、白い粘りのある液が出るよね~っと、指先でねばねばの液を触っていたのですが・・・。
 左の写真は、シンガポールで見た、インドゴムの木です。日本では、家の中に小さく納まっていた観葉植物が熱帯では大きな木になるんですね。
 このインドゴムがクワ科イチジク属のしめ殺しの木だと、自然友の会で教えてもらったときは、あのおとなしげな観葉植物の意外な本性にびっくり。さらに、こんれもまた、ゴム採取に使われていたと聞いて、子供の頃のいたずらはやっぱり無駄(?)じゃなかったのだと、妙に嬉しくなったのでした。
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 左の写真は、パラ・ラバ・ツリー(Hevea brasiliensis)の種です。今では、天然ゴムと言えば、このパラ・ラバ・ツリーから採れる樹液(ラテックス)を指すのですが、19世紀はゴムを採るために他のさまざまな白い樹液の出る植物が各国で試され研究されたのでした。インドゴムのそのうちのひとつです。

 「ゴム」は、1493年のコロンブスの第二回航海によって発見されました。アマゾン河流域のジャングルには、ゴムノキが自生しており、インディオたちがこの樹液を使ってボール、また壷や洗面器などの生活用具に使っていました。
 しかし、当時は今のゴムのような弾性はなく、そんなに注目されたわけではなかったようです。
 人の生活に便利な「ゴム」として注目されるようになったのは、1839年、アメリカ人のチャールズ・グットイヤーが「加硫法」という加工方法で、「弾性ゴム」を発見してからです。この後、イギリス人のトーマス・ハンコックによりゴムと硫黄の化学結合のさまざまな加硫法が開発され、近代的ゴム工業が始まりました。
さて、このようにゴムの需要が伸びてくると、いったいどの植物から採れる樹液が最適か、または、ブラジル産のヘベア種の他に利用できる植物はないか、とさまざまな研究が始まります。このようなゴム状物質(ラテックス)を産出する植物は、実に沢山の種類があり、トウダイグサ科、クワ科、アカテツ科、キョウチクトウ科、マメ科などなど、その他の属にもあり、生える地域も熱帯、亜熱帯、温帯から亜寒帯、乾燥地域にも広範囲にわたり繁殖するそうです。
 しかし、野生ゴムの繁殖は熱帯地方が最も適しているということで、19世紀半ばは欧米が競って各々の熱帯アジアやエジプト、アフリカの植民地で様々なラテックスを産出する植物植え研究をしました。その中のひとつがインドゴムというわけですね。
 シンガポールでは、もうひとつ、アカテツ科のグッタペルカ(Palaguium gatta)を栽培しゴムを採っていた様子をブキィマ山中で見ることが出来ます。こちらは、今は合成ゴムに置き換わってしまっているそうですが、樹液の特性から海底電線用の絶縁体として重要だったそうです。今はゴルフボールの外皮として使われているそうです。

 このような様々な試みの結果、へベア種の中でも特にアマゾン川本流右岸に分布する「へベア・ブラジルエンシス」(Hevea brasiliensis)パラ・ラバ・ツリーが最も良質のラテックスを産出するとわかったのです。
 はじめのうちは、ブラジルから効率よくゴムを運んでくることを考えていたイギリスも、そのうち気候が似ている熱帯アジアの自国の植民地で植えてゴムを採った方が経済的と考えるのも当然のこと。重要な輸出品であるパラ・ラバ・ツリーの国外流出を防ぎたいブラジルの目をかすめ、アジアに送るイギリスの試みが始まったのでした。
 
 



 

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2007年10月16日 (火曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその3

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 1888年に、シンガポール植物園長と赴任したリドレー。しかし、植物園が今の場所に開園したのは、それを遡る1859年のこと。リドレーが来るまで、植物園には園長がいなかったのでした。当時の植物園はどんな状態だったのでしょう・・・。また、植物園の始まりは・・・。

94_002p_2  現在のシンガポール植物園は、広さが52ヘクタール、南をホーランド・ロードとネピア・ロード、北をブキティマ・ロードに挟まれ、華やかなオーチャード・ロードからも程近い位置にあります。正式名はSingapre Botanic Gardensです。Gardensと複数形になっているのは、園内にいろいろなタイプのgardenがあり、研究を行っているからなんだそうです。ちなみに、英国のKew Gardens(王立植物園・正式名the Royal Botanic Gardens)も日本語ではキューガーデンと呼ばれていますが、正式には複数形です。

918_007p このシンガポール植物園の歴史は、1822年にトーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿が、今はフォートカニング・ヒルと呼ばれている、港を見下ろす丘に自分の家と、植物園を造ったことに始まります。
 この丘は、現在ではフォートカニング・パークと呼ばれ、歴史的建造物のある美しい公園となっていますが、ラッフルズが造った最初の実験植物園の名残を、園内のスパイス・ガーデンに見ることが出来ます。
 ラッフルズはここに、当時重要な商品作物であるクローブやナツメグなどの香辛料を集めて植えました。そして園内の一部に遊歩道のある公園を造りました。
 しかし、資金不足のため、1829年に閉園。1836年に再開しましたが、1846年に再び閉園してしまいます。
 3度目に、Agri-Horticultural Society(農業園芸協会)が現在のシンガポール植物園の場所に再開したのが、1856年のこと。これが、今の植物園の前身となりました。
915_095p  この時の植物園は、レジャー・ガーデンまたはオーナメンタル・ガーデンとして計画され、フラワー・ショウや園芸祭を催していました。人々のためのお楽しみの庭園といったところだったのでしょうか。
 しかし、また運営資金が不足します。庭園や植物園を維持することは、大変お金のかかることなんですね。しかし、今度は閉園にならずに植民地省に運営と維持が引き渡されることになりました。1874年のことです。
 植民地省は、この植物園をただの散歩道や遊歩道にするために手に入れたわけではありません。英国のキューガーデンで訓練された植物学者や園芸家を呼び寄せ、産業植物の収集と栽培と研究をさせることにしたのです。この時から、シンガポール植物園の学術的活動と産業の拠点としての歴史が始まったのでした。
 この次は、ゴム(パラ・ラバ・ツリー)の栽培の歴史からです。




 

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2007年10月15日 (月曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリーその2

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 シンガポール植物園初代園長、H.N.リドレー。マレーにゴム(パラ・ラバ・ツリー)の大規模農場を普及させることに執着し、「マッド・リドレー」「ラバー・リドレー」と呼ばれたと伝えられています。小柄で、禿頭、もじゃもじゃの口髭をもつ鋭い眼の彼は、どういう人物だったのでしょう・・・。
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19世紀半ば、1855年に生まれたリドレーは、少年時代から自然に大変興味を持っっている子供でした。
 偶然ですが、英国政府がゴムが農園作物になることに興味を持ったのも1855年です。その主唱者は、ゴム加工に携わったトーマス・ハンコックで、キュー・ガーデン(王立植物園)の園長、サー・ウィリアム・フーカーに東南アジアでのゴム栽培を提言。フーカーはそれに応え、「その計画を実行する者には、それが誰であれ援助する。」と宣言したそうです。

 実際にこの計画が実行され、成功するのはずっと後になるわけですが、リドレー少年も、自分がゴム栽培にかかわることになるとは夢にも思わず、甲虫類と哺乳類の収集に明け暮れる少年時代を送っていました。
 そして、1875年、彼はオックスフォード大学に入学します。そのころは、ダーウィンの進化論により生物学の科学的立証がなされ、あらゆることが論議されいる時代で、リドレーも早い時期から、自然の歴史に魅せられ、熱帯植物の生物学的多様性を探ることに野心を持っていました。
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 1878年、リドレーは地質学で学位を取ります。彼のキャリアの最初の2年間は、オックスフォード地質学博物館で化石の研究をすることでした。ここで、彼は分類法に取り組み、英国内と海外でフィールドワークを行いました。
 この後、英国政府の植物局に移り、大英博物館に8年勤めることになりました。この間の彼は、単子葉植物を専門に研究していました。後に、彼はマラヤのランや単子葉植物の収集と分類を熱心に行いますが、それはこの時に下地が出来ていたものでしょうか。
 また、この間に植物学と動物学について論文を発表しています。
 そして、1887年、リドレーは「休み」を取ることになりました。英国学士院が彼をブラジル探検へと送り出したからです。
12_057p  しかし、リドレーが早いうちから抱いていた野心-熱帯の植物の生態を研究すること-は、衰えることがありませんでした。
 そんな彼の情熱が天に届いていたのか、英国自然科学者の第一人者が、リドレーがリンネ協会会員であることと、彼の博物館での仕事ぶりに注目していました。
 第一人者は、この時ロンドンの植民地省より要請の来ていた、シンガポール植物園園長及び海峡植民地の森林管理者としてのポストに興味があるかとリドレーに尋ねました。
 当然この話を受けた彼は、1888年、シンガポールへと渡ることになりました。

 次回は、当時のシンガポール植物園とリドレーの奮闘のお話です。
 
 
 
 
 

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2007年10月12日 (金曜日)

H.N.リドレーとパラ・ラバ・ツリー

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 パラ・ラバ・ツリー(パラゴムノキ)Para Rubber Tree
 Euphorbiaceae(トウダイグサ科)
 Hevea brasiliensis

 Henry Nicholas Ridley(1855年~1956年)イギリス人
 シンガポール植物園初代園長(1888年~1912年)

さて、ブログを書くのがまた間が開いてしまいました。この間まで、再びコーナーさんについてあれやこれや調べていました。コーナーさんを調べるということは、シンガポール植物園の歴史もついで調べることで・・・。植物園の歴史を調べていると、当然ながら、代々の植物園長のことにも出会うわけです。
 その中で、面白いなと思った人物がヘンリー.ニコラス.リドレー(Henry Nicholas Ridley)、シンガポール植物園の初代園長です。シンガポールでは、トーマス・スタンフォード・ラッフルズと同じく、シンガポールの発展に貢献した人なのだけれど、ラッフルズほどは知名度はないのではないかしら・・・。
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 リドレーの功績を一口に語ってしまうと「ブラジル原産のゴムノキ(パラ・ラバ・ツリー/Hevea brasiliensis)を初めてブラジル国外での栽培に成功させ、アジアをゴムの一大産地とすることに貢献した。」ということなのですが、当たり前ですが、たったそれだけではない彼の仕事や、背景を見るととても興味深い。この間、シンガポール自然友の会に提出したレポートには、詳しく書けなかったので、ブログに書くことにしました。これは、私の「リドレーさん覚え書き」です。
 ちなみに、参考にしているのは、主にシンガポール植物園発行の「Gardenwise」(2005年7月25日号)です。
 左の写真は、パラ・ラバ・ツリーの木の皮に斜めに傷を入れて、ゴムの汁が出てくるところを撮ったものです。この、木の皮に杉綾模様を入れてゴムの汁をバケツに溜めて採る様子は、映画「インドシナ」や他の昔のアジアの産業を紹介する写真でよく見かけるものだと思いますが、この、木を切り倒さないで汁を採る方法(タッピング)を発案したのが、リドレーなのです。この方法だと、それまでの木を切り倒してゴムの汁を採る方法より、木を生かしながら長い期間汁を採り続けられるので、ずっと経済的で効率もいいわけですね。
 
19世紀の半ば、ゴムの需要が伸びる中で、もっとも質の良いゴム状物質を出すブラジルのアマゾン河流域に生えるパラ・ラバ・ツリー(パラ・ラバ・ツリーから取れるゴムを特に天然ゴムと呼びます。他の植物でゴムが採れるものがありますが、こちらは区別して野生ゴムと呼んでいるそうです。)から採れるゴムの最大の輸入国だったイギリスは、これを東南アジアに移植し、自前のゴムを採ることを考えます。ブラジルから輸入するより、東南アジアの植民地で栽培してゴムを採る方が経済的だし利益も上がるわけですね。

 そこで、何度か失敗し、パラ・ラバ・ツリーの種子の国外流失に目を光らせているブラジル当局の目を盗むようなことをして、種子をイギリスのキュー・ガーデンに運び、発芽に成功したのが、1876年、1900本の苗木がセイロンのパラデニア植物園に運ばれたのが1877年。このうちの22本が、同年6月11日、シンガポール植物園に運ばれ、これが、東南アジアのゴム農園に広がり、ゴム産業を栄えさせる元となったのでした。

 この、パラ・ラバ・ツリーの苗木から種を取り、増やし、当時のマレーシアの農場主に種を植えて育てるように説得してまわるという、地道な努力をした人が、1888年に初代シンガポール植物園長として赴任した、リドレーだったのでした。
 当時、マレーシアなどシンガポール周辺の農場(プランテーション)は主にコーヒーとスパイスを扱っていて、最初は農場主達はゴムには見向きもしなかったそうです。それはそうですね。誰しも、扱い慣れた農作物の方が良いし、方向転換するのは大変なこと。彼はおかげで、「マッド・リドレー」「ラバー・リドレー」のあだ名がついたそうです。

 この、農場主たちがゴム農園へと切り替えていったのは、19世紀の終わりごろ、東南アジアのコーヒー農園にさび病が流行し、壊滅的な被害にあったため、他の農作物を探さなければならなくなったことも原因のひとつにあげられます。リドレーの研究と地道な努力の結果が実を結び、20世紀初頭の自動車工業の発展ととにゴムの需要がますます伸びるとともに東南アジアのゴム農園は広がっていきます。マレーシアとセイロン産のゴムがブラジル産のものに取って代わり、世界のゴム生産の半分以上を占めるようになると、シンガポールは世界のゴム積み出し港に変貌していったのでした。

 このようにして、19世紀半ばに始まったイギリスのゴム産業の戦略は、20世紀には大成功を収めたわけですが、その影には種子の運び出しから、発芽、輸送に何人もの人ががかかわっていますが、最後は「天才」と呼ばれたリドレーの努力あり。この次は、そのリドレーさんについて書きますね。
 
 

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2007年8月29日 (水曜日)

ヴェルサイユ庭園

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ヴェルサイユ-Versailles
アクセス 
①RER・C5線に乗り、終点Versailles Rive Gauche駅下車。宮殿まで徒歩約10分。
②SNCF サン・ラザール駅からVersailles Rive Droite駅行き、終点下車。宮殿まで徒歩10分。
③SNCF モンパルナス駅からRambouillet駅行きでVersailles Chantiers駅下車。宮殿まで徒歩20分。
④メトロ9号線終点駅Pont de Sevres駅からバス171番に乗り、宮殿前アルム広場下車。
(私は、いつも夫の運転する車で行っています。パリやブローニュからだと、約30分で着きます。)

 8月26日の日曜日に夫と下の息子を説得してヴェルサイユに行くこと3回目。下の息子の「もう、3回目でしょ!宮殿見て、トリアノンも見たでしょ!」と言うのを、「まあ、いいじゃない。今回は、オランジュリーを見たいのよ。近くに牧場もあるでしょ!」となだめて、暑い夏の半日をヴェルサイユの庭園で過ごしました。
 ヴェルサイユはルイ14世が50年かけて造り上げた宮殿。建物はル・ヴォーとドルベイの設計で、庭園は、ル・ノートルの設計、とはガイドブックに書いてありました。
 ル・ノートルはヴェルサイユ庭園でフランス式庭園(平面式幾何学式庭園)を完成し、評判を呼んだこの庭園様式はその後ヨーロッパ中に広まったそうです。
P1090448jpgp_2 こちらは、宮殿から大運河を見たところです。はるばると広がる空間に誰でも思わず立ち止まり見とれるのではないでしょうか。
 運河は船を浮かべて楽しんだそうですが、現在でもボートを浮かべて楽しむ人々の憩いの空間になっています。

P1090445jpgp_3  見事に幾何学的に設計され、植物を上手く利用して表現された庭園は、「庭園とは人工的に造るものだったのだ!」という当たり前のことを思い出させてくれます。
 「私たちは本当に自然がすきか」(塚本正司 著、鹿島出版社)を読むと、「庭園は自然とは違う。」と書いてあります。「どんなに自然に似せて造ってある庭でも、人の手が入れば入るほど自然とはかけ離れていくものだ。」そうですが、目の前に「はい、自然とは違います!」とはっきり言っているような庭園を目にすると、「お見事!」と言いたくなりますね。


P1090452jpgp どちらかというと自然の風景を取り入れた庭園に慣れている日本人の私には、幾何学的庭園を毎日見るのは窮屈になるのではないかと思うのですが、当のルイ14世も老年期にはマルリー・ル・ロワにヴェルサイユとは趣がまた違った城館を建てたのだそうです。ルイ14世も同じ人間だったのですね。
 さて、時代が下って18世紀になると、自然の風景を取り入れたイギリス風景式庭園が流行ってきますが、マリー・アントワネットの離宮、プチ・トリアノンにはこの様式が取り入れられています。


P1040915jpgp_2  こちらは、3月にプチ・トリアノンに行った時に撮った写真です。早春の頃で、夏とはまた違った美しさがありました。
 ヴェルサイユ宮殿内の王妃の寝室だけを見ると、いくら豪華とは言え、女官や貴夫人たちの見守るなかで寝起きしていたという窮屈さに、マリー・アントワネットが気の毒になってしまうのですが、プリ・トリアノンを見るとその美しさや贅沢さに気の毒な気持ちもまったくなくなってしまうのです。
 広い敷地に、自分専用の田舎風の家(内部は綺麗に装飾されている)を持ち、音楽ホールや劇場を造り、田舎風の家をわざわざ建てさせたのです。イギリス風景式庭園を造るために、近くの森から木を移植したそうで、それにも膨大な費用がかかったとか。究極の贅沢なような気がします。
P1090459jpgp さて、今回のお目当ては実はこれ「オランジュリー」と「オランジュリー花壇」。こちらは、庭園南の南花壇から見下ろしたところにあります。3ヘクタールの「オランジュリー花壇」を取り囲んでいるのが「オランジュリー」。やはり、幾何学的に植物を配置してありますね。
 ガイドブックによると、1663年にル・ヴォーがつくった小さな「オランジュリー」をジュール・アルドアン・アンサールが1684年から1686年かけて作り直したものだそうです。

P1090456jpgp  夏にはこのように、木箱に植えられた1,055本の樹木(ヤシ、キョウチクトウ、ザクロ、ユージェニア、オレンジなど)が外の「オランジュリー花壇」に置かれ、冬になると「オランジュリー」内に木箱ごと運び込まれるそうです。大変な手間がかかると思うのですが、昔から熱帯や温帯の植物はそれだけ魅力があり所有することは富貴の象徴だったのでしょうか。
 「オランジュリー花壇」の向こうに「スイス人の池」が見えています。この池は1678年に掘削が開始され1688年に完成した、広さ16ヘクタールの広い池です。ガイドブックには何のために掘られたのか書いてないので、使用目的は分からないのですが、暑い夏の日には池の青さがヤシやオレンジの緑とともにさわやかな印象をつくりだしています。
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 暑い一日だったのですが、時間になると格調高い音楽の調べとともに庭園内の噴水が一斉に吹きあがりました。そうすると、うだるようだった庭園の温度が下がり、急にさわやかになったのはびっくりしました。噴水は庭園の景観を一気に変える効果があるのですね。
 
 


 

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2007年8月 8日 (水曜日)

明日から旅行に行ってきます

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 写真は、ブローニュの森の中の「バガテル公園-Parc de Bagatelle」のバラ園です。
明日から、スイスに旅行に行ってきます。受験生の息子をのんびり旅行させていいのだろうか・・・・。ブログはちょっとお休みです。

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2007年8月 4日 (土曜日)

ラヌラー庭園とマルモッタン-モネ美術館

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 ラヌラー庭園-Jardins du Ranelagh
*Ranelaghの名前は、イギリスの貴族Lord Ranelaghに由来しています。英語なので、フランス語では発音がしにくく、「ラネラグ」「ラヌラフ」「ラネラー」などの呼び方があるようですが、ここでは「ラヌラー」にさせていただきます。
 創立:1860年
 広さ:60,500㎡
 アクセス:メトロ9号線La Muetteより徒歩2分 
       16区の住宅街の中にあり、Avenue du Ranelagh,Avenue Ingres,
                 Avenue Prudhon, Avenue Raphaelの通りに囲まれいます。
開園時間:週日は8時、週末は9時
閉園時間:1月-17時30分、2月-18時、3月-19時、4月15日から5月15日-2時、5月15日から8月31日-21時30分、9月-20時30分、10月-20時、11月1日から11月15日-18時、11月15日から12月31日-17時30分
                 (閉園時間は参考です。管理者の都合により変わる場合があります。)
施設:野外音楽堂、菓子売り場、ブランコ、メリーゴーランド、子供の遊び場、砂場、球技場、卓球台、ロバとポニーの遊歩道、デッチェアの貸し出し、芝生、東屋、バリアフリー、リードを付けた犬の散歩は可
その他のインフォメーション:ギニョール(指人形芝居)5月と11月の毎週水曜日、日曜日と祝祭日、Avenue Ingresの側(問い合わせ:01 45 83 52 75)に架かります。 
*ギニョール-Guignol(指人形芝居)について詳しく知りたいかたはこちらを見てくださいね。
P1080341jpgp 「ラヌラー庭園」は「マルモッタン-モネ美術館」に行くついでに通りかかる人が多いようです。 この美術館は、「ラヌラー庭園」の近くの住宅街の中にある邸宅が美術館となっています。この邸宅は、第2帝政の終わりごろバルミー男爵によって建てられた狩猟小屋(壮麗なものだったそうです)を、ジュール・マルモッタン(1829年~1883年)が買ったものだそうです。
 ジュール・マルモッタンは実業家で、後にジロンド県の収入役となりましたが、美術品愛好家でもありました。彼は、ルネサンス以前の美術品を収集したので、こちらもこの美術館で楽しむことができます。
ジュール・マルモッタン亡くなると、息子のポール・マルモッタンがこの邸宅を譲り受けますが、彼はエヴルー(ウール県)の県議員の職を投げ打って、この邸宅とコレクションを充実させることにしました。息子のコレクションは、ナポレオン派の絵画や調度品です。
 美術館に入ると、美しい調度品や内装や、印象派の絵画以外のコレクションも見所のひとつです。
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  さて、「ラヌラー庭園」(Jardins du Ranelagh)とは、フランス語では発音がし辛い綴りですね。Ranelaghとは、イギリス人の貴族Lord Ranelaghに由来する名前だそうです。
 18世紀半ば、Lord Ranelaghはロンドンに、ダンスホールを開きます。こちらは、人気を呼びたいそう繁盛したそうです。その成功ぶりはフランスにも聞こえ、1774年、この地にモリゾンというフランス人が同じようなダンスホールを開きました。

P1080337jpgp_2 こちらのダンスホールも成功をおさめたそうですが、後にオースマン男爵の所有となり、1860年には公共の公園となりました。
 「ラヌラー庭園」は、道路と住宅街に囲まれた三角形の土地の中を、3本の道路が通っている珍しい形の庭園ですが、敷地は広く、プレイグランドも充実していて子供を安全に遊ばせることができます。庭園内は、まさに住宅街の庭といった感じで、ベンチで読書をしたり、芝生で昼寝をしたり、人々がゆったりと時を過ごしていました。



P1080338jpgp_2  この庭園は、古い木も多く、樹齢200年をくだらないマロニエの木や、1840年に植えられたハシバミの木があるそうです。





P1080336jpgp_2 こちらは、ラ・フォンテーヌの立像らしいです。
   

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2007年8月 2日 (木曜日)

ジヴェルニー・クロード・モネの庭

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 ジヴェルニー-Giverny
 アクセス:国鉄パリ・サン・ラザール駅よりRouen(ルーアン)またはLe Havre(ルアー
       ヴル)行きで約15分、Vernon(ヴェルノン)下車、バスか車で約15分。列車
       は一日20本前後。
       パリからは70km、車だと1時間ほど。
 睡蓮の庭園とモネの家-Les Jardin et Maison de Cloude Monet
 問い合わせ:クロード・モネ財団-Fondation Cloude Monet a Giverny
 開館日時:4月1日から10月31日まで
        火曜~日曜の午前9時半から午後6時
        祝日(月曜日も含む)は開館
 入館料:7歳まで無料、12歳まで3ユーロ、学生4ユーロ、ハンディキャップ3ユーロ
      大人と老年5.5ユーロ
(フランス語のアクセント記号は省略させていただいています。)

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 上の息子(受験生)は、日曜でも塾で夏期講習中。下の息子を連れて、さてどこ行こうか、ジヴェルニーにでも行ってみよう。と、いうことで、この前の日曜日に、クロード・モネの家と庭で有名なジヴェルニーに行って来ました。
 フランスはもうバカンスに入っているので、パリもブローニュも人が少なくまばらな感じです。ジヴェルニーに行く道もすいていて、すいすいと1時間ほどで着きました。
 ジヴェルニーは、クロード・モネが気に入った土地だけあって、近づくにつれその美しさに驚かされます。
P1080082jpgp  この日は、まだ曇り空が続いていて写真ではモネの庭の美しさが上手く紹介できないのが残念です。光は色を表現するのに大事なものなんですね。
 花の色も、木々の緑も明るい光あってこそなのだと、フランスに来てから気づきました。常に強烈な太陽が降り注ぐシンガポールでは、考えなかったことです。
 最近になって、晴れてきた空や光と花々や木々の色を見ていると、印象派の画家の絵を思うようになりました。


P1080068jpgp_2  クロード・モネは1883年、43歳の時に2人の彼の子供と、アリス・オシュデ(後に結婚)の6人の子供と共にこの家に移り住みました。
 現在は、モネのアトリエや大人数の食事をまかなった台所、食堂、寝室などが見学出来、当時の暮らしの様子をうかがうことが出来ます。
 台所も食堂も大きく美しく、モネが子供達との食事や、友人達との会食を大切にし楽しんでいた様子がしのばれます。
 ジヴェルニーを背景に、子供達や人々を描いたモネの絵は明るく暖かですが、家や庭を見ているとその暖かさが伝わってくるようです。

P1080036jpgp   モネは画家であると同時に、造園家でもあったらしいです。この家の庭はもともと果樹園だったのですが、彼は造園家に依頼せずに自ら設計し、花の庭園へと作り変えていったのだそうです。植物は自ら選び、日本の友人達を通じて取り寄せたものもあるそうです。
 この庭を歩いていると、花々の色合いの変化と調和のとれた美しさに目を奪われます。まるで、画家のパレットを見ているようです。




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  1893年、モネは家の前庭である「クロ・ノルマン」の向かいに土地を購入しました。土地は道路と線路を隔てた向こう側に位置していて、小川が流れていました。彼は、この小川の流れを変え、およそ20mの小さな池を作らせました。これが、モネの睡蓮の池の始まりです。その後、1901年に新たに隣接地を購入し、さらに池を拡大しました。この睡蓮の池をめぐる庭は、すべてモネが手がけたそうです。
 


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 こちらは、「オランジュリー美術館」の睡蓮の絵です。
 「オランジュリー美術館」には、モネの睡蓮の絵が壁のぐるりを曲線状に展示してあります。真ん中の椅子に座っていると、まるで、池のほとりに座り、水を眺めているような気分になってきます。

 オランジュリー美術館
    -Musee de l’Orangerie
 へのアクセスはこちらを見てくださいね。
 開館日時:火曜を除く毎日開館(5月1日、12月25日を除く)
P1080138jpgp  入館料:普通料金6.5ユーロ 
       割引料金4.5ユーロ
       毎月第一日曜は無料
 入館時間:グループ(要予約)9時から12時半
        個人見学12時半から19時
              (金曜日は21時まで)

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こちらは、パリ16区のラ・ミュエット(La Muette)にある、「マルモッタン・モネ美術館」です。1950年に、ヴィクトリンヌ・ド・モンシー婦人が、モネの「印象・日の出」を含む印象派の絵画を寄贈しました。また、1966年、モネの末息子のミシェルが亡くなった後、モネの絵46点がこの美術館に遺贈されました。今では、世界最大級のモネのコレクションがあるそうです。
 「マルモッタン・モネ美術館」の地下には、モネの絵だけを展示してある部屋があります。こちらでも、ゆっくりモネの絵を鑑賞することができます。


P1080341jpgp  マルモッタン・モネ美術館
   -Musee Marmottan Monet
アクセス:メトロ9号線 La Muette(ラ・ミュエット)
      より徒歩5分
開館日時:10時から17時半 毎日
(月曜、1月1日、5月1日、12月25日は閉館)
入館料:普通料金8ユーロ、
     割引料金4.5ユーロ(25歳未満の学生)
     8歳未満は無料





     

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2007年8月 1日 (水曜日)

チュイルリー庭園の観覧車

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 チュイルリー庭園-Jardin des Tuileries

 アクセス:メトロ1号線 Tuileries駅 、 メトロ1、8、12号線 Condorde駅よりすぐ
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 わざわざ語る必要も無いほど有名な観光名所「チュイルリー庭園」。この日は、上の息子が塾で夏期講習中(受験生)で、暇を持て余している下の息子を連れて、「オランジュリー美術館」に行ったのでした。(左は「オランジュリー美術館」の外観です。)
 「チュイルリー庭園」は「ヴェルサイユ宮殿」の造園で知られるル・ノートル設計の名園だそうで、ここに来れば、「オランジュリー美術館」「ルーブル美術館」「コンコルド広場」が一度に楽しめる、お得(?)な庭園です。

この、「チュイルリー庭園」の始まりは、1563年に王太后カトリーヌ・ド・メディシスがチュイルリー宮殿とイタリア式庭園を造らせたことによりますが、もともとはパリを守備する砦だったのだそうです。その後アンリ4世(1594年~1610年)によって養鶏場やオレンジ園(現在はオランジュリー美術館があります)が加えられました。このころまでは、もっぱら軍事施設として機能していたそうですが、ルイ13世(1610年~43年)の時代に一部庭園として使われ、1668年になると、ルイ14世(1643年~1715年)の庭師で王室建物監察官だったアンドレ・ル・ノートルによって庭園として再整備され、軍事施設としての役目を終えました。
 チュイルリー宮殿は1871年に焼失しましたが、ル・ノートルが設計した部分はほぼ現存しており、現在も人々の憩いの場となっています。
 「オランジュリー美術館」というと、モネの睡蓮の絵で有名ですね。ここは、もともとオレンジ園(オランジュリー-orangerie)のあった場所でした。「オランジュリー」とは、オレンジの鉢植えを冬の間入れておく温室のことです。チュイルリー庭園のオランジュリーには、庭園の果樹が納められていたそうです。
 あちこちの庭園の見取り図を見ていると、時々「オランジュリー-orangerie」と記してあるところがあることに気が付きます。有名なところでは、ヴェルサイユ宮殿のオランジュリーだそうです。ヴェルサイユ宮殿のオランジュリーについて詳しく知りたい方はこちらを見てみて下さいね。
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 こちらは、チュイルリー庭園の噴水から、コンコルド広場の方向を見たところ。噴水とコンコルド広場の中央に立つルクソール神殿のオベリスクと凱旋門が、一直線に見えるところが、なんともフランスらしいですね。

P1080173jpgp_2 今、チュイルリー庭園のリヴォリ通り沿いに仮設の遊園地が出来ています。
 息子は、美術館よりこちらのほうがいいようで、観覧車に乗ってみることにしました。
 








 観覧車から見えるパリの風景をたのしんでくださいね。
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 遊園地を上から見るとこんな感じです。右側の通りがリヴォリ通りです。
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 ピラミッド広場を見下ろしたところです。金色に小さく見えるのは、ジャンヌ・ダルク騎馬像です。
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  ルーブル宮とルーブル美術館方面を見下ろしたところです。
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  チュイルリー庭園を見下ろしたところ。向こう側にオルセー美術館が見えます。
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  エッフェル塔と、左に見える特徴のある屋根はアンヴァリッドです。
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 小高く見えるのは、モンマルトルです。サクレ・クール聖堂が見えますね。
 

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2007年7月31日 (火曜日)

プレ・カトランとシェイクスピア庭園2

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 Theatre de Verdure du jardin Shakespeare
 「シェイクスピア野外劇場」
 アクセス:プレ・カトラン

 毎年夏、5月から9月まで、シェイクスピアの劇を野外劇場で公演しています。
 今年の演目はシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」やモリエールの喜劇など。
 詳しくは、こちらTheatre de Verdure du jardin Shakespeareをご覧ください。
 (フランス語のアクセント記号は省略させていただいています。)
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 ブローニュの森の中にある庭園プレ・カトラン。その中にこの「シェイクスピア庭園」はあります。「シェイクスピアの庭園って一体何?」と思って行ったら、木々や植物で表現された野外劇場のことでした。私達が行った日は、もう時間が遅く、門を閉めるところでしたが、「写真を撮りたいのだけれど。」と、管理人のおじさんに言ったら、舞台の見えるところまで快く入れてもらえました。
 
 写真は舞台のほんの一部と、客席となる芝生が見えます。
この芝生は400人収容できる客席になるそうです。客席とオーケストラボックスと舞台は、植物と鉱物の花壇で仕切られています。
 左は、野外劇場の見取り図です。

 この野外劇場は、「真夏の夜の夢」「ハムレット」「マクベス」「テンペスト」「お気に召すまま」の5つの戯曲から着想を得てデザインされています。
 「真夏の夜の夢」と「テンペスト」を表現する部分は、地中海の香り高い植物を植えてあります。「マクベス」と「ハムレット」のデザインは、ヒースとイチイ。「お気に召すまま」は、デンマークのアルデンヌの森を思わせるうっそうとしたイチイの森を表すデザインだそうです。
時間がなかったので、ゆっくり見て回れなかったのが残念でした。
 プレ・カトランは、1856年に一般に公開されました。次いで、1857年には「花の劇場-Theatre des Fleurs」が創られました。この「花の劇場」は、花々と小低木で袖付けされたボックス席のある、1800席の階段桟敷の劇場だったそうです。当時の人々は、ここでコンサートを聴き、酪農場の搾りたてのミルクを飲み楽しんだようです。
  ところが、1870年に起こった普仏戦争と、次いで起こったパリ・コミューンの対立のため閉鎖されました。19世紀末には、それでもいくつかの興行が行われたようですが、第一次世界大戦(1914年~1918年)の後は完全に閉鎖された状態になりました。
 この庭園が復活したのは1953年、<Amis de la France>の要請により、パリ庭園管理長のJoffet氏が昔の「花の劇場」のイメージ通りに「シェイクスピア庭園」として創ったのです。
    
 


 

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2007年7月29日 (日曜日)

プレ・カトランとシェイクスピア庭園1

halさん、私はシンガポールノのウエットマーケットがなつかしいです~。
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Pre-Catelan et Jardin Shakespeare
 アクセス:パリ16区 ブローニュの森
       メトロ1号線 Porte Maillot で下車、その後バス244に乗り
       
Bagatelle-Pre-Catelanで降りて400mほど歩きます
 開園時間:9時30分(通年)
 閉園時間:10月1日から夏時間の終わりまで・・・18時30分
        冬時間の始まりから2月末まで・・・17時
        3月1日から冬時間の終わりまで・・・18時30分
        夏時間の始まりから9月30日まで・・・20時

 面積:81、500㎡
 創立:Pre-Catelan 1856年  Jardin Shakespeare 1953年
(フランス語のアクセント記号は省略させていただいています。)

 夏休みに入り、上の息子(受験生)は塾。暇を持て余している下の息子を連れて、FさんとFさんの息子さんS君を誘って、ブローニュの森の散歩に行きました。今回は、バスPC1のPorte de la Muetteで待ち合わせ。ここから、アンフェリユール湖のほとりを歩て、ブローニュの森の中を散歩する予定。(ブローニュの森の様子はまた後日ね。)
 さて、ブローニュの森を歩いていると、なにやら美しい庭園が・・・。
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 こちらが、プレ・カトラン(Pre-Catelan)と呼ばれる庭園でした。
「ここには、パリコレも開かれるレストランがあるんですって。」と、Fさん。そう言えば、夫が美味しいレストランがブローニュの森の中にあると言っていたっけ。
 左の写真は、プレ・カトランの門です。鬱蒼とした森の中の、由緒ありげな門を通ると、中には小川の流れる静かな庭園がありました。プレ・カトランの近くには、16区の高級住宅街があります。冒頭の写真の様に、木の下に椅子を置き、ゆっくりと読書する人や、内部の児童公園で子供を遊ばしているお母さんたちを見ていると、日常の中の庭園といった感じです。
 しかし、このプレ・カトランの歴史は古く、もともとルイ14世の狩猟長、テオフィール・カトラン(Theophile Catelan)の所有(1697年)だったことから、この名がついています。
 また、伝説では、フィリップ4世(フィリップ端麗王:1285年~1314年)の時代に、吟遊詩人のアルノール・カトラン(Arnault Catelan)がプロヴァンス伯爵夫人、ベアトリス・ド・サヴォア(Beatrice de Savoie)の代理でフィリップ端麗王に贈り物を届けた時、命を落としたのがこの地なのでこの名前がついたことになっているそうです。フィリップ端麗王とベアトリス・ド・サヴォアと吟遊詩人カトランの因果関係はフランスの歴史に詳しくないのでよくわかりませんが、興味のある方は調べてみて下さいね。
 このような歴史や伝説のある庭園ですが、もともとはブローニュの森の散歩道の敷石を採掘するただの草地だったそうです。
P1080217jpgp  今は、散歩道が敷かれ、木々の木陰の美しい庭園となっています。
 左は、樹齢200年のブナの木です。パリで最も美しい木のひとつだそうです。




P1080208jpgp  こちらは、1872年に植えられたカルフォルニア原産のセコイア。高さ150mあるそうです。










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庭園内には、このような花壇がいくつかあります。
こちらは、アジアの植物を使ってデザインしてあるそうです。P1070942jpgp_1
花壇の横には、デザインと使ってある植物名を記したプレートが立っています。

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こちらもアジアの植物。

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ヨーロッパの植物。
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P1070956jpgp アメリカの植物。
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P1070966jpgp P1070965jpgp

こちらは、レストランの建物です。森に張り出したステージが付いています。

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2007年7月14日 (土曜日)

ロダン美術館

halさん、まゆりさん、コメントありがとうございます。写真より実物の方がずっときれいなんです。写真て難しいもんですね。
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 ロダン美術館-Musee Rodin
  メトロ13号線 Varenne(ヴァレンヌ駅)よりすぐ
 特別展:Le Reve japonais-日本の夢 5月16日から9月9日まで
 *フランス語のアクセント記号は省略させていただいています。すみません。

 P1070689jpgp_2                        
7月だというのに雨模様の日が続いている(7月12日現在)毎日でが、Fさんと一緒にロダン美術館に行って見ました。場所は7区、アンヴァリッド(Hotel de Invalides)のすぐ近くです。
ロダン美術館では、ロダンの彫刻はもちろんのこと、カミーユ・クローデルの作品も展示してあります。さらに、今は、特別展の「Le Reve japonais-日本の夢」をやっていて、ロダンのコレクションの浮世絵や型紙、日本のお面などを見ることが出来ました。
 また、ロダンが1906年にマルセイユで出会ったという、役者の花子さんの顔の彫刻が展示してあり、こちらも興味深かったです。「瞑想する花子さん」と題名がついているのですが、私にはどうにも額にしわを寄せて悩んでいるようにしか見えなかったりして・・・。
 さて、作品の展示も興味深いのですが、ロダン美術館を訪れるもうひとつの楽しみは、美術館になっているビロン館とロダンの彫刻を置いてある庭を見ることです。
 ガイドブックによると、ビロン館は18世紀に建てられた貴族の邸宅で、ビロン元帥が住んだためこの名があるそうです。帝政時代には教皇特使やロシア皇帝も滞在したという豪奢な館を、国有となってからロダンは自分の作品と交換で使用権を得たそうです。
 パリの中心にありながら約3ヘクタールの庭園をもつ閑静な環境をロダンは大変好み、1917年に亡くなるまで製作と生活の場としました。美術館はロダンの死の2年後に開館されたそうです。
 冒頭の写真は、前庭においてある「考える人」像です。2枚目の写真は、右の方にビロン館、左にちらりと見えるのはもとはチャペルだったそうで、いまは、特別展場になっています。真ん中に、エッフェル塔が立っているのが、見えるかしら・・・。
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 「考える人」の反対側に「地獄門」があります。









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 ビロン館を裏側の庭園からみたところ。イギリス式庭園なんだそうです。

P1070694jpgp 館の内には、彫刻がたくさん展示してあります。

















P1070702jpgp  こちらは、階段を2階から見たところ。
手すりの金色の装飾と床の白と黒の模様が美しかったので。

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2階の窓から見る庭園の眺め。











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庭園には、薔薇が綺麗に咲いていました。

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2007年7月11日 (水曜日)

アルベルト・カーンの庭園その3

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 TOMさん、コメントありがとう。エスパニエって、広く知られてるものだったのね。
どうりで、マダム・Oが「本当に知らないの?」と言っていましたっけ。でも、初めて見た時は、びっくりしました・・・。

 さて、「アルベルト・カーンの庭園その3」です。飽きずに見てね。なにしろ、4ヘクタールの土地にいろいろな庭園を盛り込んであるので・・・。
 今日の冒頭の写真は、「La Foret Vosgienne-ヴォージュ山脈の森」で撮ったもの。
(Foret のeの上には本当はアクセント記号があります。アクセント記号は省略させていただいています。すみません。)
 庭園内を歩き回っていて、ふと気が付いたら、岩がごろごろしている小道に出ました。石がごろごろしている小道を登ったり降りたり。ちょっと、山道を歩いているような雰囲気です。
P1070374jpgpt  この、森はアルベルト・カーンが幼い頃過ごした、アルザス地方のヴォージュ山脈をイメージして作ったものだそうです。
 アルベルト・カーンは、アルザス地方の北部バーラン県(le Bas-Rhin)の出身ですが、1870年の普仏戦争の為に、フランス北東部のムーズ県
(la Mueuse)に引越さなければならなくなったのでした。
 パンフレットによると(私の訳が間違ってなければ)、3,000㎡の土地に、ヴォージュ山脈の800,000ヘクタールを占める森を再現したものだとか。
 現在の森は、1999年の暴風雨の時にかなりの損害を受けてしまったもとの森を、ヴォージュ山脈をよりイメージできるように造り直したものだそうです。もともとの森は、岩を置き、たくさん植えられた木々の幹の間から差す光と影で、アルベルトが子供頃愛した森を表現していたそうです。
 再建後の森は、谷間と二つの斜面を作りました。ひとつの斜面には花崗岩を置き、エゾマツとブナを植えてロレーヌ地方を表現しています。また、もう一方は、1999年の暴風雨の後に復元されたもので、カシワとマツを砂岩のごろごろした斜面に植え、アルザス地方を表しているそうです。
 写真は、どちらがどの地方のものだか、私にはちょっとわからないです。木と岩を見て判断してみてくださいね。
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この他に、イギリス式庭園、「La foret doree et la
prairie-黄金の森と草原」、「La foret bleue et la
marais-青い森と沼地」と名づけられた庭園があります。
 「黄金の森」は、カバノキが植えてあるので、秋には森が金色に見えることから、「青い森」はアフリカとアメリカから集められた、エゾマツやヒマラヤスギが青みがかった色の森をつくることから名づけらているそうです。
 左の写真は、イギリス式庭園の一部です。

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こちらは、「青い森と沼地」です。

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 最後に、「アルベルト・カーンの庭園」全体図を入れておきます。
参考にしたのは、「Les jardins Albert Kahn」と「Musee departemental Albert Kahn」
です。私の訳はちょっとあやしいのですが。それから、フランス語のアクセント記号は、全部省略してあります。すみません。

 

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2007年7月 8日 (日曜日)

アルベルト・カーンの庭園その2

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 ふたたび「アルベルト・カーンの庭園」です。
「Les Jardins d'Albert Kahn」-Les jardins と複数形になっているだけあって、日本庭園だけでははく、様々な庭園が約4ヘクタールの敷地の中にあります。
 上の写真は、「フランス式庭園」を「イギリス式庭園」の方向から見たところです。きちっと四角くシンメトリーになっています。庭の一辺は「椰子温室」と呼ぶのか Le Palmarium という温室があります。正面に見えるのは、Le Verger-Roseraie となっているので、「果樹園と薔薇園」ですね。
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他で私が見た庭園でも、フランス式庭園に温室と果樹園と薔薇園が付いていたけれど、これがお決まりのスタイルなのかなあ・・・。








P1070345jpgp フランス語の先生、マダム・Oに、「アルベルト・カーンの庭園」に行った事をお話しました。
「フランス式庭園を見た?四角くて、シンメトリーになっていたでしょう。日本庭園の曲線を描いている庭とは、随分違うでしょう。」
 パリの街路樹も、きちっと刈り込んであるけれど、庭もきちっとするのがフランスの好みなのかしら・・・。今まで、日本の公園等で、「なんだかヨーロッパ風の庭ね~。」と思っていた庭は、フランス式庭園だったのだと、わかったりして・・・。

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 果樹園の方へ歩いて行くと、うっ、これは何~?!
木が、それも果物の生っているいる木が平に壁の様になっている!
 これ、前にもTさんに連れて行っていただいた、「バガテル庭園」(ブローニュの森)にもあったのですが、ここでもお目にかかるとは・・・。
「フランス式庭園で、りんごの木が壁の様にしてあるのをみたのですが・・・。」マダム・Oに訊ねると、
「あれはね、Un pommier en espalier(アン・ポミエ・アン・ネスパリエ) と言うのよ。りんごだけでなく、なしやプルーンや杏やさくらんぼやイチゴでも壁の様に作るの。」
 確かに、なしの木も、イチジクも同じように作ってあって、実が生っていましたが・・・・
「イチゴも壁に作るんですか?」

P1070362jpgp 「そうよ、イチゴだとあんまり丈が高くはできないわね。壁に作ると、実が熟した時すぐに取って食べられて便利でしょう。」
成る程・・・。
 espalier とは、辞書で引くと「樹檣(じゅしょう)(果樹の幹や枝を支える棚や塀)、果樹棚;棚に支えられた果樹の列」とあります。
またこのような栽培方法を culture en espalier (樹檣式栽培)と言うのだそうです。初めて知りました。
「日本では、こんな植え方を見たことがないの?」
「ありませ~ん。」
故郷の埼玉には屋敷林というものがあり、木を壁の様にしてありますが、果樹で見たのは初めてです。
 枝をきっちり二またに分けて、それを直角に生やすのってなんだかすごい・・・。
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 こちらは、お行儀よく仲良く並んだ薔薇園の薔薇。
薔薇園には薔薇をアーチ状になるように作ってあるものもあったのですが、花盛りを終えてしまったらしくて、残念でした。




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 薔薇園のはずれの方には、こんな自然な感じのする場所もありました。

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2007年7月 6日 (金曜日)

アルベルト・カーンの庭園と美術館

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アルベルト・カーンの庭園と美術館
-Les jardains Albert Kahn
  Musee Albert kahn-
アクセス:メトロ10号線
             Boulogne-Pont de Saint-Cloud
             バス 52,160,126,72,175
      トラムウェイ T2 Parc deSaint-Cloud下車
                              

 「ブローニュ・ビランクール市には、アルベルト・カーンの庭園があるのよ。行ったことある?行ったことがないなら、是非行きなさい。」
私が自然大好きなことをご存知のフランス語の先生、マダム・Oがしきりに勧めてくれるので、行ってみました。
「美しい日本庭園があってね、美術館もあるのよ。」楽しみ~。

 さて、行って見ると入り口はモダンな感じの美術館がある。中に入って、入館料1ユーロ50を払い、パンフレットをもらう。受付のムッシュウが、
「庭園への入り口は、最初の扉ですよ。」と教えてくれる。
美術館の中は、19世紀初頭の写真が展示してある。それも、アフリカやアジアの風景や人々の写真。ざっと見てからお目当ての庭へ。
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 扉を出ると、目の前に日本を感じさせるプロムナードが・・・。パンフレットによると、約4ヘクタールの敷地に、2種類の日本庭園、フランス式庭園、イギリス式庭園、ヒマラヤ杉の庭園、沼地の庭園、草原の庭園、ヴォージュ地方(山岳地帯)の庭園があるとか。
 まず、フランス人に人気あるという日本庭園のひとつ「日本の村」へ行ってみる。
 茶室と小さな日本民家のある庭園は、日本の庭園そのもの。小川が流れ、石を配し、苔むした石灯籠や紅葉など、ここがフランスであることを一瞬忘れそ
そうになる。一歩歩くごとに、違った美しさを見せる

P1070444jpgp_2 庭の眺めににうっとり・・・。
 
 でも、こんなに端正な日本庭園を造った、アルベルト・カーンとは、いったいどんな人だったのでしょう。

 アルベルト・カーンは、1860年3月3日、アルザス地方の比較的裕福なユダヤ人の家庭の4人兄弟の長男として生まれました。彼ら一家は1870年の普仏戦争の影響を受け、時代の混乱の中を翻弄されて生きました。普仏戦争の結果、アルザスとロレーヌ地方の一部は、プロシアの領有となりましたが、、フランス人として生きることを選んだ一家は、フランス北
P1070384jpgp_1 東部のムーズ県に移り住みました。
 しかし、不幸なことに、アルベルトの母は、彼が10歳の時になくなりました。アルベルトは、1876年、16歳でサヴェルヌのコレージュの教育を終えると、パリに出て、最初はモンマルトルの服飾メーカーに就職しましたが、その後すぐにシャルル&エドモンド・グードシショウ兄弟の銀行に雇われることになり、銀行家への一歩を始めたのでした。
 彼は、たいへんな努力家で、働きながら勉強しました。そんな彼に家庭教師として、勉学の手助けをしたのが、後の哲学者、アンリ・ベルグソンでした。アルベルトとアンリ・ベルグソンの間には以後、終生
P1070389jpgp_1 変わらぬ友情が続いたのでした。
 アルベルトの努力の結果、彼は文学と科学でバカロレアを取り、1885年には学士号を取りました。また、彼の努力と才能は、銀行の仕事でも頭角を現し、南アフリカのダイヤモンドと金の投機で富を成しました。
1892年に、グードショウ銀行の頭取となった彼は、1895年にブローニュ・ビランクール市のこの場所に家を買い、庭園を造り始めました。
 1898年には、独立し、自分の銀行カーン銀行を作りました。
 彼は、たいへんな日本好きだったのですが、それ
P1070387jpgp は、1898年の商用で行った日本旅行によります。たくさんの写真とともにフランスへ戻ったアルベルトは、自分の庭に日本庭園を造ることしました。
 特別に日本の芸術家を呼び、庭のデザインと植樹をさせ、2件の家や盆栽も日本から運んだそうです。
 この旅行を機に、アジアの風景や人々を写真の記録として残すことに目覚めたアルベルトは、その後、カメラマンを連れて、世界中を旅します。この旅で撮った写真は、50ヶ国、72,000枚のカラー写真と、183,000メートルの白黒フィルムで、19世紀初頭の特にアジア地域の記録として貴重なものだそうです。
 これらの写真とフィルムは、美術館に所蔵され、公開されています。これらは、「地球の資料」と呼ばれています。
 彼はまた、世界の平和と人々の相互理解と国際協力を奨励する、様々な財団を設立しました。アルベルト・カーンの庭園のテーマは、「平和と友愛」であるそうです。アルベルトは、オーギュスト・ロダンなどの当時一流の文化人とも交流を持ち、彼らをこの庭園に呼んでもてなしたそうです。
 1929年の大恐慌の影響で、アルベルトの銀行も破産しました。1932年のことです。彼は、ブローニュの庭園と家は差し押さえれました。しかし、オート・セーヌ県により、彼の地所と「地球の資料」は購入され、美術館と庭園として管理するようになったのです。
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 こちらは、「新しい日本庭園」と呼ばれている庭園です。アルベルトの2回目の日本への旅(1908年~1909年)の後、改修されたのですが、1988年から1990年にかけて、日本人の造園技師、高野文彰氏のデザインによってリニューアルされました。

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 1936年に、オート・セーヌ県がこのブローニュの家と庭園を買い上げた後も、アルベルトはこの家に住み続ける事が出来たのでした。
 アルベルト・カーンは、1940年11月14日、この彼の家で亡くなりました。
 
 
 

  

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